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キリストの聖体ミサ「シェガレ神父の説教」

キリストの聖体 
ヨハネ6,51−58 渋川教会 2023

 一般の人はご聖体のことについて疑問に思うことがあります。最近あるお爺さんからどうして教会の人は皆がお米ではなく、パンを食べるのですかという疑問が投げかけられました。質問に困った私は次のように答えました。パンを与えてくださるイエスの住んでいた国の主食はパンであって、このパンはその国の文化と宗教とも深い関係があったからでしょう。教会はこのパンの文化を受け継いで、ミサの奉納の時に司祭はパンを手に取って「神よ、あなたは万物のつくり主、ここに備えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵、労働の実り、私たちの命の糧となるもの」と祈っています。
 お米も文化と宗教と深く関わり、日本では聖なるものとされています。例えばなどの時は稲の収穫を祝う儀式があり、初穂を神に供えています。ある調査によると、日本の80%の人はパンより米に親しみを感じる数字が出ています。もしイエスは日本に生まれたならばパンよりお米を選ばれ、最後の晩餐にパンではなく、お米を祝福し、茶碗にご飯をよそって、弟子たちに回したでしょう。お米はパンと同じで、大地の恵、労働の実り、命の糧とされ、神に感謝しながら生活の糧としていただき、食事の時にいただきますと祈り、分かち合っています。その意味でパンとお米両方とも聖なる物です。しかしイエスの国の主食はパンだったので、供物としてパンを選んだわけでしょう。納得したお爺さんの顔を見て嬉しかったことを思い出します。 
 キリストの聖体についてもう一つの疑問は時々耳にします。ミサのパンを食べることはどんな得があるでしょうかと。腹を満たすためではないでしょう。この疑問に次に答えたらどうでしょう。聖別されたパンを食べることによって私たちは 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりを受け、共同体の一致が強められます。昔は個人の聖体拝領は問題がなかったが、あまり意味がないと典礼神学者が教えます。聖体拝領は個人ではなく共同体のわざです。誰かがミサのパンについて食べれば何かよい効果がある魔法のお薬というふうに考えれば気になります。聖体拝領の中心は「コムニオ」(communio)つまり交わりの儀であり、イエスと兄弟姉妹との一致を目指ざす儀式です。
 最後は「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」というイエスを囲んでいた人々の疑問が出ています。このことに関してイエスは「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私のうちにおり、私もまたいつもその人のうちにいる」と彼らに答えるが、「肉と血」という表現はもちろんとは関係がなく、人間全体のことを指す象徴的ない言い回しです。私たちは日曜日のミサにキリストの体を食べ、御血を飲むことによって、イエスが私たちの心に留まり、豊な永遠の命が与えられます。 
 今日は命のパンをいただく私たちはイエスのパンを手と口で受けるだけではなく、パンの中に込もったイエスの思いを自分の思いにし、イエスに倣い、イエスの十字架を背負って行きたいを言えば、聖体拝領が完成します。聖体拝領した人はイエスがなさったように人のために自分の命を捧げる用意があります。
 10年前亡くなったソウルの大司教、は1989年のソウル聖体大会で述べた言葉をいつも思い出します。「キリスト者であるとは主の名のもとに共に食べ、共に飲むことです。キリスト者であるとは全ての人々、とりわけ何も食べるもののない人々のために食卓を解放することです。キリスト者であるとは自分自身がたべられるため、この世を生かすために捧げられたパンになることを意味します」。枢機卿はキリスト者である私がこの世を生かすために捧げられたパンになるというということを主張します。この言葉を聞いた時に感動しました。
 ミサの後、家族や学校や職場に戻って悩んでいる隣人のために時間をさいて、話を聞いてあげることとか、助けを必要とする人々の支援活動に関わるとか、具体的な実行を通してこそ、イエスが私たちの心にずっと留まり、約束された永遠の命が私たちに与えられて、幸いでしょう。

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