見出し画像

4月10日「受難の主日・シェガレ神父様の説教」

受難の主日 C ルカ23,1−49  受難の物語 2022

ミサの前に枝の行列に参加してイエスがエルサレムの入場を記念しました。群衆の人々がオリーヴの枝を手に振って、熱狂的にイエスを歓迎し、賛美しながら歓喜を表していました。人々の中でいつもの通りファリサイ派の人だけが喜ばず、ぶつぶつ不平を言っていました。イエスは誰も乗ったことのない子ロバに乗って入場します。旧約の時代、ロバは代々の王様が乗る動物だったが、イエスの時代は王だけではなく、庶民の乗り物ともなっていて、人々にとって身近で大切な交通手段の一つでした。昔馬は戦争のために使っていたが、ロバは謙遜と平和の象徴でした。ロバに乗ったイエスは、権力を揮うような王ではなく、穏やかな、謙遜な王としてエルサレムに入り、喜びと平和を告げ、都に入ります。 
ミサの時にルカ福音書による受難物語を読みました。イエスは、他の福音書と違って、自分の無力を曝け出し、穏やかな姿勢を示しています。聖パウロが手紙にあるようにイエスは「自分を無にして、僕の身分となり、へりくだって、十字架の死に至るまで従順でした。」ルカの受難物語にはイエスの思いやりと従順を強調する場面が三つあります。一つはイエスが嘆き悲しむ女性たちを慰める場面です。「苦しんでいる私のために泣くな。むしろ自分と自分たちの子のために泣きなさい」と女性を慰めます。二つ目はイエスが一緒に十字架にかけられ、救いを求める犯罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約します。三番目はイエスが十字架にかけられた時の最後の言葉です。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。」ルカの福音書は、最後の最後まで神に信頼するイエスの姿勢が貫かれます。一生小さき人々と共に歩んだイエスが最後まで彼らの苦しみや重荷を担いながら、神に全てを委ねて自分の命を捧げます。彼の目指していた神の国の夢は実現できなく、皆に罵られ、親しい人に裏切られ、虚しい死に方に向かうにも関わらず、イエスは父への信頼を失わず、全てを父の手に委ねていきます。イエスの姿には英雄のポーズがありません。死に向かいながら彼の父なる神への信頼は変わりません。この信頼に対して神の答えは復活です。神様が自分を無にしたイエスを死者から蘇らせてくださいます。
 イエスに従おうとするわたしたちも、イエスと同様に自分を無にして、富や名誉など、この世のいのちへの執着を切って、永遠の命に与るよう招かれています。わたしたちは、いつか、知識も、体力も、財力も、一生蓄えたものを手放して、裸になり、いつか死んでいきます。私たちはこの運命を受け入れて、神の愛に全てを委ねたいです。婦人のように主の慰めを受け、犯罪人と同様に罪をゆるされ、イエスと同様に全てを御父に委ね、穏やかな死を迎え、永遠の命に与るという信仰を新たにしていきたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?