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マルコによる福音1:21∼28「シェガレ神父の説教」

B年間4主日 
マルコ1,21−28 イエスの権威
渋川 2024

 今日の福音はイエスの教えにある権威を語っています。22節に「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになっていた」と書いてあります。イエスの言葉には重みがあったわけです。もう一箇所26節にイエスは汚れた霊に取りつかれた男を悪霊の支配から解放する権威にも驚きます。医学が進んでいなかった当時、精神障害者は「汚れた悪霊に取り憑かれた人」として見られて、差別されました。今日シナゴスに入り叫んでいる人は「悪霊に取り憑かれた人」と見られて、その結果自分のことを悪霊と同一視していました。これはまさに差別の恐ろしい悪循環ではないでしょうか。福音書には精神障害者だけではなく、徴税や水商売のような職業を持っていた人は悪霊に取り憑かれるとされました。変わり者に見えたイエスでさえ「悪霊に取り憑かれた男」と周りの人から指さされたという箇所があります (マルコ3、22)。 
 イエスは叫んでいた汚れた霊に向かって、黙れ、出ていけと命じ、自分の中に悪霊がいると思い込んだ男を自由にして心を落ち着かせます。それを見て周りの人は実践に裏付けられたイエスの言葉とわざには権威があり、これは新しい教えだと感心しています。それに比べて律法学者の権威はルールの押し付けに過ぎず、人の不安を和らげるどころか、人に罪悪感を抱かせる人としてイエスに批判されています。
 権威は二つの種類があると思います。人を解放し育てる良い権威の欠如と人を抑圧する悪い権威の濫用が指摘されています。教皇フランシスコは謁見で、現代における父なき社会の悲劇を度々指摘して、「昔の家父長制の権威主義の束縛から解放されたおかげで私たちが自由になって良かった面もあるが、その反面、お父さん不在の社会が出てきて、お父さんが子供に生きるための基本的な方向や価値観を示さず、多くの子供はお父さんがいても孤児のような者で、権威の欠如によって深い傷を被っています」と厳しいことを言っています。この教皇の指摘は父だけではなく先生や政治家についても同じことが言えるかもしれません。教室が荒れて、先生がお手上げという話がよく報道されているし、政治家は世論に迎合して、言っていることと行動が一致しないので。国民に信頼されません
 今日の聖書に強調されているイエスの権威は違います。彼の教えは空想や強制と違い、言葉と行動が一致して、考え方が現実の中に根ざしていたため、重みが感じられたと言えます。彼の教えは世間一般の常識だけではなく、偏見や思い込みでもなく、むしろ固定観念を破る新鮮な教えだったので、響く力があり、本物のような教えに聞こえました。
 そしてイエスの権威は何よりも神の言葉に基づき、彼の揺るがない信仰から生じ、神の約束が必ず実現するという確信に基づいていたと思われます。イエスの信仰はずれもぶれもなく、全面的に神への信頼に根ざすものでした。信仰の弱い私たちの言葉にはこのような重みや力が感じられるでしょうか。信仰を語る私たちの言葉に確信が欠け、偽善が混じり合うことが多い。しかしイエスは弟子たちに悪に打ち勝つ権能、人を自由にする権威の力を与えたように、洗礼を頂けた私たちにも権威と権能を与えて、行って福音を伝え、悪霊から社会を解放し、希望を与えなさいと私たちを派遣しています。こうした権威権能をうけて、職場、家庭、学校などに戻り、福音を自分の言葉で大胆に伝えることができるように祈りたいと思います。

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