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四旬節第5主日ミサ「シェガレ神父の説教」

A 四旬節5主日 ヨハネ11,3〜45 
ラザロの蘇り(復帰) 
渋川カトリック教会 
 
今日の福音にイエスが愛していた3人の姉妹兄弟、ラザロ、マルタとマリアが出てきます。彼らはエルサレムから3キロ離れたベタニアという小さな集落に住んでいました。イエスがエルサレムに上っていく度にいつもベタニアに泊まり、3人とゆっくり時間を過ごし、休んでいたようです。今回、エルサレムの人々の石殺しを逃れ、ヨルダン川の向こうにいたイエスは二人の姉妹からラザロの重病が知らされ、ベタニアに出かけようとしたが、ついた時にラザロがもう死んでいました。マリアは家に座っていたが、いつも忙しく動いている女として知られたマルタはイエスを迎えに行きました。マルタは「主よもし遅れずにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったのに」と不平を言っています。それに対して、イエスは「あなたの兄弟は復活する」と彼女に言うが、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じている」と答えます。マルタの答えは当時のユダヤ人の信仰とイエスの教えだったが、ラザロの蘇りは違い、終わりの復活に当たるのではなく、過去の状態への戻りでした。それに対して復活は新たな生命の始まりであり、過去への戻りではなく、未来への立ち上がりです。イエスの前に復活した人は誰もいません。ラザロは例外ではなく、彼の生き返りは社会や家族復帰であったでしょう。その後彼は全ての人のように死に、イエスの復活に与るようになったと言えます。
 ではどうしてイエスはラザロを元の状態に生き返らせたでしょうか。今日の福音によると二つの理由があります。一つはラザロの生き返りは神の栄光のしるしでした。もう一つはラザロの生き返りは人類復活の前兆でした。私たちも命である復活と命の主であるイエスの力を信じているなら、生物学的な意味の死を迎えても、消えることのない永遠の命に与ることができます。
 さっきラザロの生き返りは家族復帰を意味していたと言ったが、復帰と復興のわざは復活のわざとつながると思います。福音書の中にはイエスによる復帰と復興の物語が多いです。イエスは共同体から外された罪人や障がい者などを家族や共同体に復帰させています。イエスにとって共同体復帰は救いの第一歩でした。復興のわざもそうです。イエスは堕落していたエルサレムの神殿を祈りの家に復興し、罪のために倒れていた人類を復興するために来られて、私たちの協力を求め、建物だけではなく、罪のために様々な堕落に直面する教会の復興のために聖霊を注ぎ私たちの取り組みを支えています。
 神戸と東北の大震災の後に地域共同体復帰と国の復興は日本の大きな課題となりました。復興の課題は建物だけではなく、生活の再建、安全な環境などを含んでいます。
 信仰の視点からすると如何なる復帰と復興への人間の努力は復活によって全うされます。復帰と復興の努力を通してわたしたちは連帯を深め、壊れた町を生き返らせ、キリストの復活によって新たな未来が切り開かれ、新たな生命を迎えます。1995の阪神大震災の鷹取教会の神田神父の言葉を思い出します。「震災で,今まで築き上げたものはすべて灰になりました。でも灰にならないものがあることに,私たちは気づいたのです。これは連帯と希望です。連帯と希望を持って私たちの手で町をつくり変えながら、復活祭に向かって歩みましょう。」
 死の状態から解放され、家族復帰できたラザロの生き返りは復活のしるしでした。連帯を深めながらより明るい住みやすい社会を作る私たちの努力は決して虚しく終わるのではなく、復活とつながります。二週間後の復活祭に向かって、復活を信じ直し、永遠の命が迎えれるように心の準備をしたいと思います。

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