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ヨハネによる福音3:14∼21「シェガレ神父の説教」

四旬節4主日 ヨハネ3,14-21 
救いと永遠の命  渋川 2024

 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とイエスが述べています。神様が世の裁き、罪深い人類の罰ではなく世の救いを求めています。世の救いはなんでしょうか。日本では浄土宗を中心に念仏を唱えることによって救われる信仰があるが、現代人のほんどの人が期待している世の救いは宗教と関係なく、医療技術の進歩、豊かな経済, 安全に暮らせる環境ではないでしょうか。もちろんそういった意味の救いを否定できません。しかしイエスが語る世の救いは、自分さえ救われたらいいという救いではありません。教皇フランシスコは度々「一人では自分が救われない、」と主張します。教皇の求める世の救いは、個人の力だけで得られるではなく、共に愛をもって共通の家である地球の建設をめざして可能となると言っています 
 今日の聖書の朗読からすれば救いに関して二つの理解が出ています。第二朗読では聖パウロは他力を強調して救いを語っています。「あなた方は自らの力によるではなく、恵みにより、信仰によって救われたのは神の賜物です。」簡単に言えば人間は自分の力ではなく、神の恵みによって救われます。救いは神から私たちに与えられた無償な賜物です。この賜物を信じて、それを受け入れられたら、私たちが幸いです。 
 これに対してヨハネ福音書は救いを永遠の命に理解し、聖霊によって生まれ変わる人は永遠の命を得ることを主張します。「神がその独り子をお与えになったほどに、世を愛され、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得て」、それを信じることによって、私たちは裁きではなく、救われると何度も主張しています。永遠の命を語る聖パウロも、神の愛と平和が私たちの生活の隅々まで行き届き、わたしたちの心の隅々にまでゆきわたる救いの状態だと言っています(コロサイ人への手紙3、15−16)。 
 今日の福音箇所の最後の文章はヨハネ福音書の第1章に非常に似ています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ません。」これを読むと一種の躊躇いを感じます。光より闇の方を好み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない人は実際にいるでしょうか、どんな人なのか自分の理解を超えています。闇を好むその人は多分他の箇所を参照すれば、真実より嘘を好む人とか、神の愛を拒否して自分の力だけで生きようとする人のことでは無いかと思います。しかしこうした人でも、神の慈しみを知って回心すれば、裁きを回避し、ゆるされるでしょう。ごく最近楽観的な教皇は「私は地獄を信じているが、空っぽだと思います」と言って、周りの枢機卿を驚かせた... 今日は自分の中にある闇から解放され、真の救い、自分にある光に気付かされ、愛と希望の道を歩み、謙虚に神様の助けと導きを祈りたいと思います 

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