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文法と語「勘」

こんばんは!

語学の勉強の永遠の課題、それは「語感を研ぎ澄ませること」です。

こればかりは、文法書をいくら読んでも身につきません。

今、ドイツの学生に対して独文和訳の仕方を教えているのですが、「なぜ?」という質問の多くが、文法では説明できないものが多いです。

結構、理屈を求めてくる学生が多くて、僕もできる限り説明をするようにしています。「これはこう言うものだから」は、言うのは簡単ですが、質問に向き合っていないと思うからです。

一方で、語学は全てが美しい理論で説明できるわけではなく、納得できないことも飲み込まないといけないことも多いので、時として、「そこまで詰める必要、あるかな・・・?」と言いたくなることがあります。

そんな時、自分が逆の立場だったらどうしよう、と考えることが多いです。

僕自身、語学は文法から入る人間なので、文法の大切さは分かるのですが、ある程度のレベルまで来ると、どの言語であっても「語法」の比重が増えてきます。

「語法」には普遍妥当な規則があるわけではなく(文法も普遍的ではありませんが・・・)、その語その語でいちいち覚えていかなければいけないものです。

これは単語暗記よりもいっそう単調な作業で、恐らく語学を勉強する限り一生終わることがない作業なので、時に心が折れそうになります。

しかも、最近になってようやく、「語法」というのには、「その語その語でいちいち覚える」のではなく、「文脈」「一緒に使う他の語句」など、その語以外の要素も絡んでいることに、遅ればせながら気づきました。

「こう言った表現は使う」「この表現は適切ではない」と指摘したとしても、それは、その文脈や語順、周りの語句の流れから「たまたま不自然/たまたま自然なだけ」、ということが、結構多いのです。

これには参りました。具体的な例が今思いつかないのが申し訳ないのですが、暗記カードに書くように、一対一対応で表現を覚えていけないのです。究極的には。

「この時はこういうけれど、いつもいうとは限らない」という、あやふやなものでは、僕は覚える気がそがれてしまうのですが、突き詰めると、言葉というのはそういうものなのかもしれません。

そして大事なのが、やはり「語感」。

語感を鍛えるには、やはりインプットが大事です。それも膨大な。

そして、このインプットが、文章ではうまく書けない「語感」を鍛える唯一の道なのだと思います。

ネイティブ同様の語感(「ネイティブの語感とは?」という疑問が生じますが、さておき)が得られなくても、もう少し「勘」を利かせることができれば、と思います。

文法では説明できなくても、何かこっちの方が合っている気がする。「語『勘』」が磨ければ、文法以外の判断基準が増えるので、更なる上達も望めると思います。

文法アリか文法ナシか、ではなく、文法と「語勘」がお互いに補完しあう形が、一番望ましいのではないでしょうか。




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