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アナザーストーリー『藤野先生』

 別に医学に興味があったわけでもないが「勉強のできる者は医者」という風潮に流されて東京大学の医学部を受験した。結果は見事に不合格。まぁ当然だろう。あそこを目指す受験生は何年も前から、いや十何年か?
…とにかく必死に勉強している。生半可な気持ちで受かるワケがない。滑り止めの東北大学医学部は合格した。入学してみたら中国からの留学生は俺だけだった。

 最初に入った下宿は当初蚊に悩まされたのだが、付近の排水処理が浄化槽から下水道に代わって蚊をほとんど見かけなくなり、快適になった。何と言っても食事が上手いのがイィ。その頃、ある先生が「この宿屋は受刑者の賄いを請け負っているので、そこに下宿しているのは適当でない」といって、しきりと別の下宿に代わるよう勧めてきた。宿屋が受刑者の賄いを兼業するのは私に関係のないことだと思ったが、ご好意を無下にできず、別の下宿に引越した。刑務所からは離れたけれど、食事が貧相になった。
 後で聞いたところによれば、俺の居た部屋にはその先生の教え子が入ったそうだ。

 差別的な待遇については、中国の国力が弱まっているという時節柄仕方がないのだろうが、藤野という解剖学の教授は特に酷かった。中国医学に関して言及があったとき間違いを指摘してやったら、中国人は礼儀がなってないと人前で宣った。おまけにレポート課題は常に0点を付けやがった。あるとき彼の研究室に出向いて問い質したら、日本の漢字とは字体の異なる文字が含まれているというだけの理由だった。
 彼の授業の残り15分はいつも動画鑑賞に充てられた。内容は解剖学とは何の関係もないもので、日本軍が勇ましく戦っている場面が大半であった。教室の学生たちは毎回拍手喝采だ。中には中国人が処刑される場面もあったが、彼らはココに中国人が1人居るということなどお構いなし。万歳の声が充満した空間で、こういう時どうしていいものか悩む。形だけでも一緒に騒いでおくべきなのだろうか?それとも不意に立ち上がって「けしからん!」と叫ぶべきなのだろうか?

 唯一の救いは同級の親友ができたことだった。彼は背格好から趣味、成績まで俺とよく似ていて話が弾んだ。

 ある日、同級の学生会の幹事が私の下宿へ来て、私のノートを見せてくれと言った。彼はパラパラとめくって見ただけで頷いて帰って行った。それから数日後、学内の掲示板に「カンニングした者が居る。断じて許さない。」との張り紙がなされた。明らかに俺に向けたと分かる文面で、曰く「定期試験問題を不正に入手した」ということだった。もちろん全く身に覚えのないことだが、思い当たるフシはあった。

 とある試験の前日、例の親友(以下、Aということにしておこう)が一緒に勉強しようと誘ってきた。Aの下宿に着くや否や、彼は1枚の紙を俺に見せた。それはクシャクシャでトナーまみれの汚らしい紙だった。おそらく紙詰まりでも起こしたのだろう。広げてみると極めて読みにくいが、試験問題らしきものが見てとれた。
 俺は半信半疑ながら、そこに書かれている部分を重点的に勉強した。いざ試験になってみると、そっくりそのまま同じ問題だった。
 かくして、いつもボーダーライン上に居た2人の成績が揃って2段階も上がったのであった。あれは知らなかったとはいえ、確かに不正と言われれば不正だ。しかしなぜ俺だけ糾弾される?そもそもAが拾ってきたものじゃないか!

 ある日、登校したらロッカーの前に人だかりができていた。近づくと、群衆がみんな一斉に俺の方を向いた。学生会の幹事が大魚を釣り上げたかのようなそぶりでニヤニヤしながらクシャクシャの紙を顔の前にぶら下げている。そして俺のロッカーの中から出てきたと、勝ち誇ったように言った。
 とっさにAの姿を探す。人だかりの中でAと目が合った。それは見慣れた目ではなく、あたかも「初めまして。どうぞよろしく。」とでもいうような、よそよそしい光を放っていた。

 こうして俺の落第が決まった。
 田舎は民度が低ぅてかなわん。俺は東京に戻ることにした。

 しかしこのままで気が済まぬ。俺をコケにしやがったヤツ全員シバいたる!…といっても体格が特別デカいわけではない上に多勢に無勢。腕力では如何ともしがたい。そうだ!小説家になろう!ペンは剣よりも強しというではないか!俺は綿密な計画を立てた。ここでは端折るが、要するに有名になって「分かる人には分かる」文章を書く。それによって身に覚えのあるヤツらを居たたまれなくしてやるのだ。フヒヒ

 ただ1つだけ問題がある。それは俺自身の意志の弱さだ。これまでにもいっぱしの文章を書こうと思ったことはあるのだが、すぐ飽きて中途半端なまま放置してしまった。何かモチベーションの維持ができるものはないだろうか?

 そうだ写真だ!

 俺は高級な酒を買って藤野の研究室を訪れた。今までの不遜な態度を詫び、彼の論文を読んで感化されたと嘘八百モードで絶賛の嵐を浴びせかけた。それから資料の整理でもデータの打ち込みでも何でも頼まれれば喜んでこなしてやった。
 そして数か月が経った頃、切羽詰まった面持ちで「父が体調を崩し、急遽帰国しなければいけなくなった」と話し、「先生は近い将来偉人として奉られるお方だ。写真を頂戴してご利益にあやかりたい。」と言ったら、まんざらでもない様子で写真を寄越した。

 退学届けを出した。俺はこれからは小説家としてやっていく。

 引っ越し作業の最中、ノートが何冊か目に留まった。藤野に取り入るために作成したノートだ。すべて窓から投げ捨てた。

 車窓から見える空は青く澄んでいる。





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