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ブックカバーの心理学

ブックカバーへの驚き

私が日本にはじめて来て、地下鉄に乗って目についたものがある。それはブックカバーだ。ブックカバーで包んだ本を車内で読んでいる人を、思わずじろじろと見てしまった。今思うと、失礼だったかもしれないけれど。

ブックカバー。私も韓国でも使ったことがある。学校に通っていた頃、新学期の初日に教科書をもらってくると、新しい教科書を汚さないようにブックカバーで包んだりした。最初のころは、家にあるカレンダーを使った。カレンダーの裏面、つまり真っ白な面を包装紙がわりにしたのだ。そのうち透明なビニールの包装紙が一般的になってくると、ビニールの包装紙で包むようになった。透明なビニールのブックカバーは、本の題名が一目でわかるので便利だった。やがて、透明なブックカバーに柄の入ったブックカバーが売られるようになり、生徒たちの間で人気を得るようになった。

↑ビニールのブックカバーの作り方を説明する韓国の動画

↑「思い出のブックカバー」を紹介するページ。確かに私が子供の頃も、こういうブックカバーが流行っていた。

韓国でブックカバーというと思い浮かべるのは、教科書のカバーだ。たぶん韓国人の感覚では、教科書は特に大切なものなのだと思う。また、毎日学校に持っていくものだから、汚れやすいということもあるだろう。

日本のよく見かけるブックカバーは、それとは違った。透明ではなく、紙でできている。デザインはとてもシンプルで、どれも似たようなものだった。だからすぐに、日本人がデザイン性を求めてブックカバーを使っているのではないということはわかった。ではなぜブックカバーを使うのか。本を汚れから守るという目的だけであれば、透明なほうが題名がわかりやすく本を開かなくても何の本かわかっていいと思うのだけど、なぜ透明のブックカバーではなく紙のブックカバーなのか気になった。それであるとき、夫に尋ねてみた。返ってきた答えは意外だった。自分が何の本を読んでいるのかを他の人に知られないように、つまり題名や本の表紙を隠すためにブックカバーを使うというのだった。

上のリンクによれば、日本のブックカバーの歴史は古く、大正時代に遡るそうだ。そして、ブックカバーには広告という目的があったらしい。一方で、このリンクでは、本を読む側の人々がなぜブックカバーを使うのかについても書かれていて、そこには汚れを防ぐという目的のほかに、(夫が言ったのと同じように)「自分の好みを他人に知られるのが恥ずかしい」という日本人の心理があると書かれている。

韓国人にとってのブックカバーは、自分の個性を表すことができ、かわいく見えて、それでいて本の題名を把握しやすいようにできている。日本人にとってのブックカバーはそれとはずいぶん違うようで、この話をはじめて聞いたときとても興味を持った。そして、社会空間での他人に対する意識について、日本人と韓国人とでどのような差があるのか考えることになった。

他人の目を意識すること:社会文化心理学の研究から

文化圏による意識の違いということで真っ先に思い浮かべるのは、集団主義・個人主義であり、それと関係するMarkus & Kitayama (1991) の理論だろう。前の記事でも書いたように、Markus & Kitayamaは、集団主義・個人主義を、「相互協調的自己」(interdependent self)と「相互独立的自己」(independent self)という概念で説明しようとした。相互独立的自己が他人との関係やコンテキストにかかわらず自分自身を独立した主体としてみるという自己性であるのに対し、相互協調的自己は他人との関係の中で自らを理解するという自己性の側面である。しかし、上に書いたブックカバーの話は、集団主義や相互協調的自己では説明できそうにないし、そもそも日本人も韓国人も共に、相互協調的自己が強いとされる東アジアの文化圏に属している。

もう少し関係がありそうなものとして、Hashimoto & Yamagishi (2013) の研究が思いつく。この研究では、相互協調的自己が生じる動機について、二つの側面を論じている。私たちは他人と関係を結ぶとき、あるいは、多くの人々がいるような集団的状況におかれたとき、少なくとも二つの動機を持ちうる。一つは、集団の中でまわりの人たちと調和を求めようとする意識である。集団主義や相互協調的自己を理解しようとするときに示されるのは、たいていこの説明である。しかし、Hashimoto & Yamagishiは、これとは別の動機がありうることを論じた。それは、他人の評価に対する恐怖心である。つまり、私たちが、グループの一員として受け入れられないかもしれないという拒絶への恐怖心や、他人の視線と評価に対する恐怖心を持っているということだ。実際に、この研究の結果は、二つの動機を区別することの重要性を示している。つまり、相互協調性はこれまでアメリカ人よりも日本人の方が高いと思われていたが、調和を求める意識としての相互協調性は、アメリカ人も日本人と同じくらい高かった。一方で、評価に対する恐怖心は、日本人の方がアメリカ人よりも高くなったのだ。

もちろん、公共の場で自分の読んでいる本が他人の目にさらされることを、上の研究でいうようなグループの一員からの拒絶の議論と直結させるのは、ちょっと無理があるかもしれない。しかし、日本人が他人の視線を普段から意識しがちだという点で、二つの話には何か関係がありそうに思える。

私自身の研究から

もう一つ、関係があるかもしれない研究を紹介しておこう。私が行った研究(Park, Norasakkunkit, & Kashima, 2017) なのだが、親密な人間関係における日韓比較を行ったものである。

この研究から得られた結果としては、日本人は韓国人より社会的不安感が大きく、韓国人は日本人より個人的自己(individual self)が高いという結果が出た。(「個人的自己」というのは、自分に固有のアイデンティティーのために形成する自己を表す概念である。Markus & Kitayamaとは別のところから出てきた概念だが、Markus & Kitayamaの「相互独立的自己」と似たところがある。)

ここまでの話と結び付けて解釈すると、公共の場で他人の視線を気にしがちな日本人は社会的不安が高いのかもしれないし、日本人より個人的自己が強い韓国人は、人目を惹くかもしれないようなタイプのブックカバーを用いることに抵抗が少ないのかもしれない。

(ところで実は、この私の研究はもともと、「他者中心的関係的自己」(other-centered relational self)と「自己中心的関係的自己」(self-centered relational self)という概念を提案しようとしたものなのだが、これらの概念とかかわる部分ではクリアな結果が現れなかった。そういう意味では、私自身としてはあまり成功した研究とは思っていないのだが・・・。)

おわりに

ここまで見てくると、ブックカバーに関して次のようなことが言えるかもしれない。西洋文化圏の人々にとっては、本を読むとき、本のみにフォーカスをする。だから、ブックカバーは必要ない。一方、東アジアの人々は、本に対し、読書以外の意味も伴わせてしまう。そこでブックカバーが重要なアイテムとなってくるのだ。しかし、自分と他人の関係をどのように意識するかが文化圏によって異なるので、ブックカバーの在り方が異なってくる、つまり、日本と韓国でブックカバーに違いが出てくるのではないだろうか。

・・・と、このように考えるのはちょっと大胆な単純化かもしれないが、ブックカバー一つから、日本人や韓国人の心理が垣間見えるような気がして、なかなか面白い。

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