うしろシティのガールズバンドに見るオタクという生き物の生き辛さ

こんにちは。オタク歴10数年の虹鱒です。今日はかなり重い内容のnoteになると思います。主にオタクという生き方をしている人間にとって。

うしろシティのガールズバンドというコントがある。このコントはこの世界に生きるオタクは全員履修しなくてはいけないと思っているほどメッセージ性がすごい。すごい通り越して怖い。

ざっくりあらすじを説明させて頂くと、チェリーズというガールズバンドを応援している世間的に気持ち悪いと言われるようなオタクであるバジマ氏とヨシザワ氏が登場する。2人は価値観の合うキモオタ同士だったのだが、ヨシザワ氏がバンドTシャツを脱いで帰ろうとしたところで事態は急展開する。バジマ氏はそれが許せないが、ヨシザワ氏は自分達はチェリーズのために身を潜めて生きるべきだと語り始める。

ヨシザワ氏の「今、チェリーズの3人は世間に見つかった。そういう状況だ。そんな時に、我々が見つかってはいけない」という言葉がある。ここまで胃が痛くなる言葉が存在するだろうか。アイドル的な売り出し方をしている芸能人はファンの母数が果てしなく多くなる為、自ずとヤバいオタクの印象が強く見えるようになってしまう。その際によく「民度」とかいう言葉を使われ、注意喚起なのかdisりなのか分からない謎風紀委員による取り締まりを受ける。それなのにどうしてそのヤバめオタク達は自分を顧みず騒ぎ続け「民度」を終わりにしていくのだろうか。それは「客観視」というキーワードで語れるのではないかと思う。

ヨシザワ氏は自分を客観的に見られるオタク、バジマ氏はそうではないオタクとして描かれている。ちなみに私は人より自分を客観視できるタイプだと思って生きてきた。例えば私は過食嘔吐で、果てしない修羅を潜った結果こうなったという事もあり辛い苦しい気持ちも分かってるから(というか自分で体験したから)同情して甘えまくってしまいそうなところを、これが普通の人間からしたらクソ気持ち悪い頭おかしい行為だと理解しているつもりだ。だって普通にゲロってキモいよ。それが血の滲むような暗い過去を孕んだゲロでも。オタク系の話に関しても私は現実で男の人と向き合う事が怖いから、触れないし触られない存在の芸能人を推す事で擬似人間関係、擬似恋愛をしていると自覚している。それどころか5ちゃんねるのアンチスレを見てこんなの大体自分の思い描く推しに推しがなってくれなかった結果勝手に絶望し怒りを抱いた元オタク現アンチになった人間の終の住処だろなどと思い、そんな人間を軽蔑し私はこうならないように気を付けようと思っていた。だが、最近私にその人たちっぽい言動が目立つようになってきた。何故。こんなに予防していたつもりなのに。という事すら客観視している自分がいる。それはそれでちょっと気持ち悪すぎるのではないか。客観視というキーワード難しすぎる。こんなに長く文章を書き連ねても全然答え出ないしどうまとめるべきかも分からなくなってきた。酷い文章だ。そんな所も味があっていいけど。

大幅に話が逸れてしまった。それで、ここからが触れていいのか分からないぐらい気まずい話なんですが、うしろシティがKOCの何回戦か忘れたけどこのコントやるってなってオタクがキャー!♡みたいな事言って変な空気になってヤヤウケだったという地獄のような事件があったんですけど、騒いだうしろのオタクはこのコントを見て何故何も学び取らなかったんだという(ガチギレ)何年前の話だよって感じですけど悲しくなってしまう。きっと彼女らはバジマ氏側の自分を客観視できないタイプのオタクだったんだろうな💢💢💢💢💢💢

タイトルが「うしろシティのガールズバンドに見るオタクという生き物の生き辛さ」なので、今日はこれに甘えて終わりにしたいと思います。このまとまりのない何が言いたいのか伝わらないオタクが書いた文章を見てもらえればオタクのキツさ、生き辛さは一発で分かるのではと判断したまでです。隙自語がしぬほど多いところとか、まさに私が芸能人を愛する事と自分を愛する事についてのアンサーソングだと思っている曲の「君はそう きっとそう 自分より好きな人がいる自分が好きなの」という歌詞で言い表せる。この話もいつかしたい。ではではまた★次回はヨシザワ氏の「バジマ氏は心のどこかでチェリーズを女の子として見てるんじゃない?」「俺はゴリゴリ見ている!」という言葉について考えていくよ。

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