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【小説】『金賀堂古書店』

※これは、以前ぼくが書いた小説です。おもしろいかどうかわかりませんが、ここに発表します。

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 由藻氏はよく金賀堂古書店に通った。
 N駅という、由藻氏の自宅の近所にある駅は、JRと地下鉄のそれぞれの駅が重なっており、近隣地域のターミナルとして機能している。それなりに大きな駅の駅前に古くからある金賀堂古書店は、そこそこ客が入ってはいるものの、あまり商売上手とはいえない店主の施策により、廉価なリサイクル本をあまりあつかわない方針だった。そのせいで、一部の本好きにしか受け入れられない時代おくれの古書店となりつつあった。
 むかしながらといっても、神田の古書店街にあるような、希少な古書が山積みにされているわけではない。少ないがリサイクル本だってちゃんと置いてある。メインの古書といっても、せいぜい数十年前に千部ほど刷られた地元の新聞社による歴史書などがある程度。それでもそういった歴史書は、興味がある人には垂涎ものらしく、由藻氏がいつものように立ち読みに興じているときに、旅行者らしい男性が心もち焦ったような勢いで購入していったりする。由藻氏はそんな本好きの気配を感じるだけで、古書店通いの甲斐があると思っている。心のなかで〝よかったですね、いい本がみつかって〟などと呟くと、ちょっとしあわせな気分になれる。
 ほとんど毎日といっていいほど通っていながら、本を購入することは稀だった。当然のごとく気難しい店主には目の仇にされていた。さすがにはっきりと出入り禁止とは言われなかったが、まえに一度注意を受けた。
「お客さん、どんな本をお探しなんですか。もしよかったらこっちで探しましょうか」
 というのがその注意だった。ひょっとしたら親切で言ってくれているのかもしれない。しかしそのときの店主の目というか雰囲気が〝お客さん、早く帰ってほしいな〟と言っているような気がした。そこで由藻氏はにっこりと微笑んで「いえ、おかまいなく。なんとなく書棚を眺めているだけですので」と正直に答えた。
 店主はそれ以上何も言わなかった。ただ不満そうに由藻氏を睨んで黙った。いたたまれなくなってその日はすぐに店を出た。でも翌日からまた店に通った。たまには本を買うんだし、立ち読みしちゃいけないとは言われていないので、そのまま押しとおそうと思った。
 由藻氏は生粋の本好きだった。読書はもちろん好きだが、本そのものを見るだけで満足だった。なんなら背表紙を眺めているだけで一時間くらいはつぶせる。ときには気に入った本の背表紙をひとところに集めて、写真を撮ることすらあった。あとでそれを眺めてにやにやするのだ。
 ひとくちに背表紙といっても、題名、その字体、色、本の形状、著者の氏名、出版社のロゴなど、さまざまな情報が盛り込まれている。背表紙は本の顔。さまざまな顔がこっちにむかって語りかける。大きな顔や小さな顔、押しの強い顔、細面の顔とさまざまだ。
 それぞれの文字が、各自必要な大きさと字体で配置されている。その工夫を感じとってよろこんだ。出版関係者でもないのに。
 由藻氏はよれよれの灰色のジャケットに、くたびれたズボンを穿いている。髪の毛はまだ残っているが、よくみると隙間が見え隠れして禿げかかっているのが分かる。白髪もだいぶ混じっているようだ。齢は40半ば。独身で母とふたり暮らし。
 さいきん少し太ってきた。ずっと痩せすぎで通ってきたから、自分では好ましいと思い込んでいる。しかし傍から見れば単なる中年太りにすぎず、胸が痩せこけて下腹だけが突き出ているので極めてバランスが悪い。それでも特に食事に気をつけることもなく、また酒を飲まないせいか、たいした病気にかかることもない。仕事にも支障がないため、運動したりして健康に気をつかう必要を感じていない。結婚にも興味がない。
 由藻氏は成年後見人として、何人かのお年寄りの財産管理をしている。結婚した経験がないか、あっても離婚して子どもとは疎遠になり面倒をみてくれる親戚もいないお年寄りがいる。そういったお年寄りが認知症になると困った事態に陥る。
 いろいろな手続きができなくなるから生活が立ち行かない。生活には、たとえば介護の契約や銀行の手続きなど、面倒な判断を要する事態がたくさんある。それなのに契約書にサインする意味が分からなくなったり、手がしびれて書けなくなったりする。代わりにサインする人が必要だが、だれでもいいわけではない。親切な顔をした近所の人がご飯を持ってきてくれたり何くれと面倒をみてくれて、かってに通帳を持ちだしてお金を引きだしてしまうケースもある。
 そういったことにならないために、家庭裁判所がある程度身許を確認した人を後見人に就ける。もちろんりっぱな経歴をもった弁護士ですら、まれに後見人に就いたお年寄りのお金を盗むような事件がある。だが割合としてはすくない。それなりに地位のある者が、その地位を投げうってまで犯罪に走る可能性は、どこのだれとも分からない隣人が犯罪を起こす確率よりはすくない。そういう理屈のもとで、親族が後見人になる場合をのぞいて、他人が後見人になる場合には、なんらかの資格をもった者が後見人に就任することが多い。
 弁護士、司法書士、社会福祉士、精神保健福祉士、行政書士、社会保険労務士、税理士などが、おもに後見人になる資格者の代表だ。
 由藻氏は行政書士をしている。行政書士は、営業許可の申請書を代書するのがほんらいの仕事だ。だが長年培った社会的信用から後見人の仕事を任命されることがある。由藻氏は結婚をしていないので、身寄りがないお年寄りの立場をよく理解できる。そういうわけで、由藻氏は成年後見人の仕事を自分の天職だと思っていた。
 しかし、ときとしてつらい思いをすることもあった。被後見人が亡くなったときである。
 電話がかかってくる。病院からだ。看護師の押し殺したような声が電話のむこうから聞こえ、被後見人が亡くなった事実が告げられる。
 由藻氏は、わかりました。すぐにそちらへ向かいます、と言い電話を切る。
 由藻氏が病院に着き、正面玄関の自動ドアから入って、受付に座って微笑を送ってきた受けつけの若者にあいさつをしてから、階段で三階に上がり、階段と三階を隔てている金属製の衝立を開けて病棟の廊下に出てそこに歩いていた看護師に声をかけると、看護師はマスクのなかからくぐもった声で答えた。
「後見人の由藻さんですね。田口さんはこちらです。どうぞ」
 案内されて病室に入ると、顔に布を被された人が寝ているベッドが見えた。故人のベッドにまちがいなかった。看護師は、失礼します、と小声で言ってから顔の布を取り去る。見まごうことなき田口さんの顔が現れた。と思ったら、ぐおーんという轟音とともにその顔が迫ってきた。
 田口さんの両目は、まるで恐怖に慄くかのように見開いている。口も、叫んでいるように大きく開いていた。その顔が凍りついたまま、いきなり近づいてきたのだ。田口さんの顔はみるみるうちに膨らんでゆく。
 なにかと思ったら、看護師が誤って電動ベッドのボタンを押してしまったのだった。ベッドの上半分は、ボタンを押すと持ち上がるしかけになっていた。
「申し訳ありません」と聞こえないくらいの小声で詫びると、看護師は電動ベッドをもとに戻した。旧式なのか、たんに壊れかけているのか、上下する音はやけに大きい。夜中の病室だから周囲につい気兼ねしてしまう。
 もっとも周囲はまったくの無音というわけではない。
 時折りさかりのついた野良猫みたいな唸り声が聞こえてくる。病院のなかだし、ここは三階だから野良猫ではない。あれは突きあたりの病室にいる老婆の声だ。何の意味があるのか、定期的に唸り声を上げている。ギャーオ、ギャーオといった感じで、唸り声は三階じゅうに響き渡っている。
 いっぽうでは、さっきからずっと、カーテンを隔てた隣のベッドから低い声が聞こえている。唸り声というべきか、ひっそりと怯えるような凍えるような小さな声だ。こつこつ、とか、かつかつ、とかいう感じで、あるいは、ぽつぽつ、ほっほっ、などという具合に。それが声なのかどうかすらはっきりとは分からなかった。
 そのほかの患者たちは、みな目を瞑っておとなしくしている。眠っているのかどうか。だいたい昼間もずっと寝て過ごしているのだ。夜になったからといって眠れるわけがない。起きているのに見ないふり聞こえないふりを決め込んでいるにちがいない。病院という世界のなかで生きてゆく知恵だ。ぼくだって同じ立場だったらそうするだろう。
 田口さんの表情がホラー映画のようになっているのには理由があった。
 田口さんはもともと工事現場で働く労務者だった。現場で知り合った仲のよい友人がいて、田口さんが病気になってからも、なにかと面倒を見てくれていた。何の病気かというとそこらへんがはっきりしない。由藻氏が出会ったのは、S町にある精神病院だった。田口さんはここに入院したばかりのころに、看護師を殴ったらしく、穏やかになる薬を調整中だった。
 田口さんとせまい部屋とふたりきりで面談した。田口さんは薬が効きすぎて始終よだれを垂らしつづけていた。過沈静というやつだ。さらさらの蜂蜜みたいな透明なよだれ。それを片手に持ったタオルで、じぶんでうまい具合にさっと拭いた。半身が麻痺しているせいで縮こまってまるまった左手を使って器用にタオルを持ち上げる。そういえば半身が麻痺しているなら、たぶん田口さんの病気は脳出血かなにかだったんだろう。脳血管系の発作を経験すると、その後認知症を発症する場合がある。田口さんもそうだったんだろう。流れ流れて精神病院に入れられたにちがいない。
「うまいですね」と由藻氏は感心した。タオルでよだれを拭くさまを見て褒めたのだが、田口さんの表情には変化がみられなかった。こっちを見ているのか見ていないのか分からなかった。由藻氏のおでこのあたりをじっと見つめながら、話題にまるで反応していない。
 由藻氏は成年後見制度について一通り説明し、最後に「これから、わたしとあなたは一生のつきあいになります。よろしくお願いしますね」と頭を下げた。
 田口さんは最後だけは釣られて頭を下げた。細かい話は理解できていないものの、概ねは理解しているらしい。いや理解できていないが反射的に頭を下げてしまっただけなのかもしれない。それともこの時、田口さんはたどたどしい口調で、よろしくおねがいします、と言ったかもしれない。ずいぶん前のことで記憶があいまいだ。ただなんとなくこころが通じあえたような気がした。田口さんの、痩せて彫の深い眼孔の奥に輝くガラス玉のような目が、由藻氏の目を覗きこんで頷いた気がした。由藻氏のかってな勘違いかもしれないが。
 由藻氏が田口さんのためにした最初の仕事は、からからに乾ききった砂漠みたいな田口さんの預金通帳に、生活に必要なだけの水、すなわちお金を注ぎ込むことだった。
 注ぎ込むといったって、年金は決まった金額しか振り込まれないし、田口さんの状況では働くのはむりだ。お金が地面から湧いて出るわけはない。都合よく親戚から援助を受ける予定もない。なにしろ田口さんは一度も結婚したことがなく、両親はとっくのむかしに亡くなっている。兄弟は一人もいなかった。
 頼みの綱の友人はどこかへ消えてしまっていた。こういう場合、とても悲しいことではあるが、面倒をみていた友人がお金に困っていて、本人の貯金を食い荒すケースがある。
 荒らすだけ荒して食いつくしてしまうと、役所や病院に相談して、自分はさっさと逃げてしまう。あとに残された田口さんは、認知症のため事態がまったく飲み込めない。それなりの年金をもらっているので生活保護はむりだ。じつはこのケースが一番困る。生活保護はなにしろ医療費をぜんぶ出してくれるから助かる。田口さんにかぎらず、お年寄りの場合には医療費がかかるから、これがいちばんありがたいのだ。
 田口さんの場合、さいわいだったのは、だれも確定申告する人がいなかったので、入院して働けなくなったあとも、働いていたころと同じだけの税金を払っていたことだ。年金から自動的に天引きされていたのだ。由藻氏は法律で決まっている5年分の確定申告を、さかのぼってすることによって、相応の還付金を得ることができた。一年分で10万円ほどの還付があったから、5年でたんじゅんに50万円。これだけの余剰金があれば、今後の生活はなんとかなる。あとは手ごろな特別養護老人ホームにはいってもらえば、一か月の生活費は年金でまかなえる。つまり、還付金の50万円はまるまる田口さんの貯金になる。いざというときのために貯えがあるということは、とても心強い。
 その後田口さんはぶじに特養にはいった。順調にお金が貯まり、亡くなったいま200万円くらいが通帳に残っている。お金が貯まるのはよいことだけど、田口さんの場合、よいとばかりはいえない事情があった。
 特養に入ってしばらくしてから脳出血が再発したのだ。それでほとんど寝たきりの状態になってしまった。由藻氏が会いに行っても反応がない。話しかけても聞こえているかどうか分からなかった。
 田口さんはお金があっても、あまり使いどころがない生活になってしまった。
 由藻氏は田口さんのお金で小型テレビを購入した。特養の個室にテレビを置いて、一日中つけっぱなしにしておいた。それから、桜の季節には公園に行って桜の写真を撮った。チューリップの季節にはチューリップの写真を撮った。旅行に行ったさきで、お城の写真やめずらしい動物の写真を撮った。そういった写真をプリンタで大きく印刷して、かんたんな額に入れ、田口さんの部屋の壁にかざってもらった。
 田口さんはからだの片方を下にした姿勢のまま、自分では体位転換ができない。テレビを見るにも写真を見るにも自由が効かない。だから由藻氏は部屋中を写真でいっぱいにした。どの体位をとっても、なにかの写真が見られるようにしておいた。
 しばらくして、田口さんはまた脳出血の発作を起こした。今度はたべものの嚥下がうまくいかなくなった。医師の判断で、胃ろうを造設することに決まった。
 由藻氏が手術に立ち会った日、田口さんは不安そうに由藻氏の顔を見上げた。
「だいじょうぶですよ。かんたんな手術だそうです。ぼくはずっとここで待っています。手術が終わったらまた会いましょう」
 由藻氏の言葉がとどいたのかどうか分からない。田口さんは不安な表情のまま、手術室に消えていった。
 ぶじに手術は成功したが、金銭的にこまった事態に陥った。生活保護なら医療費はタダだけど田口さんはちがう。だから度重なる発作に対応するために、何度も入院をくりかえした結果、お金がどんどん減っていったのだ。
 この問題を解決するために、由藻氏は田口さんの身体障害者手帳を取得した。なにしろほとんど寝たきりだ。医師に診断書を書いてもらい、四肢体幹機能障害で1級がとれた。この手帳をもとに重度障害者医療証を取得すると、医療費はほとんどかからなくなる。
 生活にも最低限のお金しかかからないし、医療費もほとんどかからないから、田口さんの貯金はどんどん貯まってゆく。これはうれしいことなのか悲しいことなのか分からない。もしものときの備えにはうれしいが、ふだんは使いどころのないお金だ。
 死んでからだって、相続する人がいないから国に返すだけだ。もとはといえば国の金から得た貯金だから国に返すのはまだいい。由藻氏がなんとなく納得できないのは、国に返すまでの手続きを弁護士と司法書士が独占していることだ。手続きっていったって、財産目録をつくったり通帳を引き渡すまでの書類をつくったりするのは由藻氏のしごとだ。彼らはそれを受け取ってチェックするだけ。それだけのしごとに何十万円もの報酬が、田口さんの貯金から支払われるのだ。そんなしごとは役所がすればいいと思うのだが、ざんねんながら現状ではそういうふうになっていない。これが民主主義のしくみなのだと、割り切って飲みくだすしかない。
 それはそうと、そういうわけで田口さんの顔はホラー映画のように、目は見開き口は開きっぱなしなのだ。全身が麻痺して動かない。まばたきもしているんだかどうだか分からない。口は大きく開いて舌が半分はみだしている。ときどき特養の職員さんが、水をふくんだ綿で口のまわりを湿らしてくれる。そのときだけ、ほんのすこし田口さんの表情は明るくなったような気がする。ほっとしたような、やわらかい表情になる。そんなときの田口さんは天使みたいにかわいらしい顔だ。ヘルパーさんも面倒のみがいがあると話していた。
 そうやって数年を暮らし、ついに三度目の発作が起きた。ちょうど胃ろうのペグを交換するために入院しているときだった。処置が早くてことなきを得たが、まえよりも麻痺の状態が悪化した。もう老人ホームでの生活はむりだと医師は言う。
 療養型の病院に入院するしかない。由藻氏が知っている病院があったので、連絡するとたまたまベッドが空いてるという。すぐに転院手続きをした。
 転院にはもちろん由藻氏も同行した。介護タクシーを調達してもらい、田口さんの隣に座って一時間ほどのドライブ。不安げな田口さんの表情を見て、いつもならなにか安心させるような言葉をかけるのだが、このときばかりはうまい言葉が見つからない。
 療養型の病院は、けっしてよいところではない。自分ならできれば行きたくないと思うようなところだ。
 入院している患者の8割以上は寝たきり。胃ろうだったり鼻腔チューブだったりで栄養を摂る。そうでなくても食事に手厚い介助が必要な人が多い。多くの患者は寡黙だ。何かしゃべろうとすれば恨みごとか叫び声しか出てこない。平静なこころを保つために黙して語らない。そんな人が大半だ。
 排泄も人の手を借りないとできない患者がいる。由藻氏はいちど見た。周囲を看護師に囲まれて、まるで出産のようにして排便を手伝ってもらっている老人を。
 看護師もヘルパーもずっとそんな人たちばかりを相手にしている。元気にふるまう看護師長はものすごい精神力の持ち主だ。なにをみてもびくともしない。だがおおかたの看護師は沈痛な面持ちで厳しい労働環境に耐えている。ここで働く人たちは尊いしごとをしているのだと思う。しかし同時に関わり合いになりたくないしごとだとも思う。できれば、ふたをして永遠に目をつぶっていたい場所。見なかったことにしたい場所。なかったことにしたい場所だった。
 そんな場所に送られる田口さんに、かけてやる言葉を思いつかなかった。ただ黙って見つめるくらいしかできない。あるいは無意味に、だいじょうぶ、だいじょうぶ、とくりかえす。なにがだいじょうぶなのか、由藻氏にも分からない。だいじょうぶじゃないのだ。田口さんはこれからたいへんな場所に行くのだ。
 いや、それを言ったら田口さんのこれまでの3年間だってものすごくたいへんだった。
 なにしろ自分で寝返りがうてない。ずっと口を開けっぱなしで喉はいつもからから。目で合図するしかコミュニケーションの手段はない。が、認知症である。そもそもコミュニケーションをとろうという意思そのものがない。それでもほんの少しにっこりと笑うことがある。その顔はまるで天使だ。70歳近いおじいさんにむかって使う言葉じゃないとは思うが、天使という言葉がいちばんぴったりとくる。見ているこっちが癒される笑顔だ。
 しかし本人はどう思っているのだろう。なにを考えているんだろう。何度目かの脳出血の発作を経て、ついに胃ろうになってしまった。田口さんには食べるよろこびもない。
 ふとジョニーを思い出してみる。『ジョニーは戦場に行った』のジョニーだ。戦争で重傷を負って目も見えず、耳も聞こえず、口もきけなくなってしまったジョニー。田口さんのほうが少しはましか。
 田口さんのような人をみて、「ああなったら生きていたってしょうがない。安楽死させるべきだ」という人がいる。尊厳死という耳触りのよい言葉を使って殺人を正当化する人がいる。そんな意見をいう人には、案外お年寄りがおおい。自分ならいっそ殺してほしい、と主張して日本尊厳死協会に入る。そこで尊厳死宣言書という文書をつくってもらい、救急搬送されたときなどに延命処置をおこなわないように歯止めをかける。
 自分の死を決めるだけなら構わないが、そういった考えをもった人が、たまに親兄弟の命を握るときがある。親や兄弟の治療を拒絶し、やすらかに死なせてやってくれと医者に頼む。当の本人は意識不明の重体。意思の確認もできないのに、親兄弟が勝手に命の選択をする。そんな場面に何度か出会った。
 生きているとはどういう状態をいうんだろう、と考える。尊厳死を主張する人が、「生きていたってしょうがない」と思うのは、おいしいご飯も食べられず、きれいな風景も見に行けず、家族や友人とたのしい時を過ごしたり、好きな本を読んだり映画を見たりできないからなんだろう。しかし、そんなことが生きる意味なんだろうか。食べたり飲んだりしゃべったり見たり聞いたり笑ったり怒ったりすることが生きがいか。ただ息をしてたまに笑ったりするだけじゃだめなのか。そんなものは生きていると呼ばないのか。健康で元気な人だって、どうせ自由はかぎられている。行ける範囲やできることには限界がある。外国旅行をしたって宇宙旅行をしたって制限だらけだ。かならずあるはずの限界が見えていないだけだと思う。
 そこまで考えると、由藻氏はなんだか息が苦しくなってきた。のどが詰まってすんなりと呼吸ができない。意識的に深呼吸をしないと保たない。うつむいているとそれがむずかしい。顔をあげて気管を拡げる。すっと少量の空気が鼻から入る。気がつくと口はぎゅっと閉じられたまま。気がついてぷはっと口から息を吸い込んだ。
 傍らを見ると、看護師に加え長身の医師がそこに立っていた。いつからそこにいたんだろう。医師は眠たそうな目をして田口さんの胸元を開ける。胸に聴診器を当てる。むずかしい顔つきであちこちに聴診器を動かした後、ペンライトに持ちかえて眼球に光を当てた。田口さんの瞳孔はぴくりとも動かない。ペンライトの灯りを消し、胸ポケットにしまう。腕時計を見る。午後8時40分、亡くなりました、とつぶやく。こっちにむかって一礼する。お辞儀して返すと、医師はそのまま無言で立ち去る。
 葬儀屋が到着する。喪服を着た壮年と初老の男性がひとりずつ。
 お体はすでに清めさせていただきました、と看護師が伝える。壮年の男が由藻氏に尋ねる。搬送してもよろしいでしょうか。由藻氏は、はい、と答える。なんの感情も湧いてこない。いままで何度もくりかえしてきた、あたりまえのやりとりだ。葬儀屋のふたりは田口さんの体をていねいに抱きあげ、ストレッチャーに載せかえる。ギシギシと安普請な音をたてるストレッチャー。緑濃色のストレッチャーはかなり使い込んだ形跡が見られる。あちこちに染みがあるし、ふくざつに折れ曲がった脚は、田口さんの重みを載せて折れそうになっている。
 葬儀屋はさっさと廊下へ出てゆく。看護師が由藻氏を見る。由藻氏はあわてて葬儀屋のあとを追う。突き当たりのエレベータにストレッチャーを入れる葬儀屋。せまいエレベータのなかにはもう隙間があまりない。そこへむりやり押しこまれる由藻氏。看護師の威圧的な視線によって、入らざるをえない。しかたなくエレベータに足を踏み入れる。田口さんは頭から足先まで白い布で覆われ、奥が足か頭か区別がつかない。じっと見つめて、
 ああ、扉側が頭か、と納得がいった。丸みを帯びたふくらみで分かったのだ。
 狭いエレベータのなかは、濃密な空気で充満している。死体を囲んだ三人は一言も口をきかない。話したいことも、話すべきことも思いつかない。
 一階まで降りる。先に由藻氏が出る。軽く息を吐く。続けてストレッチャーが押しだされ、初老の葬儀屋が裏口を出る。そこにつけてある霊柩車の背面を開ける。ストレッチャーはみるみるうちに霊柩車のなかに吸い込まれる。
 あとから現れた医師や看護師が霊柩車にむかって手を合わせる。由藻氏もならって手を合わせる。壮年の葬儀屋が由藻氏に一礼して、それでは明日打合せに本社までお越しください、と告げる。由藻氏は、はい、と答える。こころのなかで、明日はたまたま出かける仕事がない、とほっとする。よかった。都合がよかった。ちょうどよかった、と胸をなでおろす。
 霊柩車が出てゆく。医師と看護師が立ち去る。由藻氏は通りに出てタクシーをさがす。まだ時刻が早い。タクシーはすぐに見つかった。運転手に、N駅までお願いします、と伝える。
 はい、わかりました、と運転手が答えてから由藻氏の意識は跳んだ。気がつくと目の前によく知った風景が現れた。N駅周辺の幹線道路。警察署。スポーツジム。信用金庫。スーパー。
 金賀堂古書店の灯りが見えてきた。真っ暗な歩道にオレンジ色の灯りが点っている。金賀堂は夜9時までだからもうそろそろ閉店か。シャッターが三分の一ほど下りている。田口さんの御臨終が8時40分だったから、ちょうどそんな時刻だな、とぼんやりと思う。
 タクシーが金賀堂のまえの信号で停まる。ぼんやりと金賀堂のほうを眺めた。丸みを帯びた灯りのむこうには、たくさんの本がひしめきあっている。大小さまざまな本が並べられ、積み上げられている。そのなかの一冊を手にとると、読む者の脳裏にいろいろな世界が拡がる。それは行ったことのない外国の旅行記かもしれない。遠い過去の物語かもしれない。会ったことのない他人の、日常のほんのささいなできごとかもしれない。ふしぎなことに、本を開くとそこには百年以上もむかしの、遠い外国の作者の見たもの聞いたもの考えたことが一瞬にして伝わる。こちらが呼びかけさえすれば、ちゃんと伝わってくる。
 由藻氏のあたまの中に漠然とした本のイメージが浮かび上がった。特定の物語やルポルタージュではない。いままで読んできた何冊もの本の内容が重なりあった、もやもやしたイメージ。ちょうど、何色ものクレヨンで画用紙を塗りつぶしてゆくと、最後には真っ黒になってしまうように、たくさんのイメージが重なりすぎて、具体的にどれがどれだか判別がつかなくなったもの。由藻氏自身にもよく分からないからこそ、よけいに強く惹かれるイメージ。このイメージはいったいなんだろう。急に本が読みたくなってきた。
 タクシーの運転手に頼む。すみません、ここで下ろしてください。信号は青に変わり、タクシーは発車しようとしているところ。運転手はあわててブレーキを踏み、いぶかしげに会計を済ませる。お金を払って外へ飛び出す。そのまま金賀堂に飛び込んだ。
 金賀堂の店内では、店主がもたもたと閉店の支度をしていた。60代後半の店主はよれよれの背広に身をつつみ、あちこちにできた本の塔のあいだを縫って歩く。ふと顔を持ちあげて、皺に埋もれたまぶたをこっちにむけた。
「お客さん、もう閉店ですよ」おもしろくもなさそうに告げる。口をへの字に曲げてはいるが怒っているわけではない。内心怒っているのかもしれないが感情をおもてに出さない。
 自分は何と呼びかけたらいいのだろう。店に入りたい。しかし入ってもよいのか。入口に立ちつくすしかできない。息が詰まった。
 店主は由藻氏なんて気にせずに店内を片づけている。だるそうな痩せた体を右へ左へ動かして、なにやらいそがしそうに見える。由藻氏はためしに一歩前進してみた。
「お客さん、聞こえないんですか」鋭い一言が飛んでくる。関心ないように見せて、店主はちゃんと由藻氏の行動を観察している。声には倦怠感が濃厚だ。なんでそんなに疲れているのかしらないが、店主は疲労の限界といったふうに声をだす。身もこころも疲れ果てたといったように。
 勇気をだして、疲れ切った店主の顔にむかって悲鳴のような声をあげた。
「すみません。今日は買います。なにを買うのか決まってませんが、かならず一冊買います。少しのあいだだけ本を選ばせてください。時間はとりません。なにかほんのちょっと読みたいんです。家に帰れば本くらいあります。でもいまは知らない本を読みたいんです。いままで読んだことのない作家の小説や、手にとらなかった分野の本を読んでみたいんです。わたしの気持ちを理解してくれとは言いません。ほんの少しのあいだ、10分だけ閉店を待ってください」
 店主はよれよれの背広そのものといった感じで力なく立っている。いまにも本のなだれに遭って押しつぶされそうな風貌。白髪混じりのぼさぼさな髪の毛。低いが細く筋の通った鼻。皺っぽい頬。痩せた体。とつぜんぷいと身をひるがえして、中断していた作業を再開する。なにも言わずに由藻氏とすれ違い、店の外に出ていって、おもてにあふれた本を整理しはじめた。
 許されたのだ――とかってに思った。喜々として店内に入り本棚をひととおり眺める。時間がない。いまの気持ちにしっくりくる本をさがす。フィクションがいいのかノンフィクションがいいのか見当がつかない。こういうときは文庫本がいい。同じサイズでコンパクトに並んでいるから素早くタイトルを読みとれる。小説は作家の名前順に並んでいる。知っている作家とそうでない作家と一目瞭然だ。ふだんなんとなく「あ」行の作家を読む機会が多いとか、「な」行の作家が多いとか、漠然とした傾向が感じられる。今はそれ以外の作家に目を走らせる。
 やがて自然に目が止まる。海外の作家の本。以前一冊だけ読んだことのある作家だが、この本はその作家が選者になって、いろいろなエピソードを集めた本だった。さまざまな人の体験談がはいっている。フィクションとノンフィクションの中間といった感じ。今の気持ちにぴったりかもしれない。
「この本をください」レジにむかう。意外に大きな声が出てしまう。店主はミーアキャットみたいに首を伸ばして由藻氏を見つめる。足をひきずるようにしてやって来て、会計を済ます。360円。原価のほぼ半額。
 転げるように店を出る。胸に買ったばかりの本を抱きしめている。なぜだか救われたような気持ちになって駅へむかった。角をまがるときに、背後からシャッターが閉まる音が聞こえた。すっと息を吸った。夜の冷たい空気がのどを通りぬけていった。
 
 
 

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