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元祖平壌冷麺屋note(224)

韓国文学を集中的に読んだ1週間だった。

まやむすびで、「こびとが打ち上げた小さなボール(チョ・セヒ)」を読んで、ぱるふぁんで「フィフティ・ピープル(チョン・セラン)」を読んで、喫茶わがまちで「カステラ(パク・ミンギュ)」を読んで、電車の中で『「知らない」からはじまる(アサノタカオ)』を読んで、冷麺屋のスキマ時間に「韓国文学の中心にあるもの(斎藤真理子)」を読むといった具合に。

『「知らない」からはじまる』は、父(アサノタカオさん)が、韓国旅行に行った娘(ま)にインタビューをする形式のブックレット。

斎藤真理子さんの本と併読したら、ポリフォニックに韓国文学の魅力が伝わってきた。 父と娘の会話でありながらも、インタビュー本として、とても楽しかった。 思春期の成長とコロナ禍の記録としても貴重。

未来の娘との会話を夢想したら、電車で泣きそうになって、危なかった。自分は当たり前のことが出来ない(朝鮮籍だから、韓国に行けない)から、やり取りが眩しすぎて。

講演会前夜に読み終えた「韓国文学の中心にあるもの」では、キム・ジヨンが私たちに教えてくれたもの、セウォル号に集中した社会の矛盾、IMF危機、光州事件・・・

・・・韓国文学の入門にとどまらず、植民地支配から解放されたのも束の間、軍事独裁政権と朝鮮戦争、経済危機に翻弄され続けた現代史を、丁寧に深く掘り下げていた。

講演会当日の朝は健康診断があったので、待機時間にはリュックサックに詰め込んだ10冊ほどの韓国文学をつまみ読みしながら、身長(また伸びていた)や体重(また減っていた)や血圧を計り、寝ながら採血して、レントゲンを撮った。

古本市場で「三体X」と「ショウコの微笑」を購入。御用ランチのあと、セットのアイスコーヒーを読みながら、さらに韓国文学を読み進めた。

マスターが、原作で読めるんじゃないですか?と話すので、確かにそうだと思い、試しにAmazonで「パクミンギュ」とハングルで検索したら、「キムチ」が大量に紹介された。何でやねん。

娘とシンズバーガーで腹ごしらえをして、神戸学生センターへ一番乗り。最前列で、読書しながら娘は宿題をしながら、待機。

いよいよ斎藤真理子さんによる、「こびとが打ち上げた小さなボール」との出会い、が始まった。

70年代の都市開発が始まったソウルの底辺で生活していた人々の暮らしや凄惨な事件に連動して生まれた作品などを教わりながら、

何故「こびと」が78年に発行以来、累計320刷、148万部突破のステディ・セラー(韓国ではロングセラーをそう呼ぶそうだ)として読まれ続けているのかを知ることができた。

チョンセ金の話を聞き、これまで韓国のエッセイや映画の中で、お金や家の問題がよく扱われていて疑問に感じていたことも解けたのだった。

講演の後は、斎藤真理子さんに直接、感想をお伝えして、本にサインまでいただいた。「10年後の栞虹さんへ」

昨年のクリマスに天国へ行った著者は「この本が読まれない未来が来ることを願う」という趣旨の言葉を残している。

このような作品がいまだに読まれ続けなければならないのは、社会が本質的に何も変化していないことの証左だから。

10年後の娘が「この本を読む必要のない社会」に住んでいることを願う。

自転車の帰り道、娘に「お話、難しかったかな」と感想を聞いたら、「ううん、面白かった。でも、お家を奪った人をぶん殴ってやりたい」と返ってきたので、ハッとした。

エピローグでの、いざりとせむしの会話を思い出したからだ。「そのポケットのナイフを捨てろよ」

その話を、教師が最後の授業で学生たちに語る。希望があるとすれば、きっと、何かを感じとったであろう、子供たちのことだ。








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