サガン鳥栖歴代外国人選手図鑑(2006年~2015年)

2006年に九州北部に住み、2007年から現在まで関東在住の鳥栖サポとして地味にサガン鳥栖を応援してきたが、面白そうな企画があったのでとりあえず参加してみた。

サガン鳥栖を見始めたのは2005年だが、その際に新居辰徳というプレイヤーに引き寄せられるように2006年から本気で鳥栖の応援を始めた。

2016年以降は子どもの誕生により、現地での応援どころかDAZNでの視聴までほぼできていない状態のため、サガン鳥栖を応援してきた第2の青春とも言うべき10年間を外国人選手を思い出しながら出張の移動の暇な時間を使って綴ってみた。(画像は付ける余裕なし……)

息の長い鳥栖サポ向けの内容のため、他サポは面白くないかもしれない。

※レンタル加入者も書き始めました


■キム・ユジン(2006)

「ユジンガーZ」と一部で呼ばれた鳥栖にそびえる黒鉄の城的なCB。189cmの圧倒的な高さがウリ。
なお、後に岸野氏率いる横浜FCに1年だけそびえることになる。
サガン鳥栖にハマり始めた私に「韓国のCBは強い」というイメージを植え付けた。
2006年は昇格争いを頑張りすぎたこともあり予算がなくなったのか、2006年での退団となった。
2010年に対戦相手として再会するのだが、その際は高さ以外の荒い部分が目立ってた気がする。
鳥栖での思い出が美化されていたからだろうか。

■キム・チョンフン(2006~2006.7)

2006年に半年だけ選手として在籍し、その後にそのまま鳥栖の通訳へ転身。2007~2009年までは地域リーグやJFLで現役を続けたが、再び鳥栖の通訳となる。
ユン・ジョンファン監督の通訳として画面に映っていたことが多く、イケメンで日本語めっちゃ上手いので女性界隈から評判に。
ちなみにユン・ジョンファン氏も日本語は普通に話せるのだが、自分の間違いでメディアやサポーターに誤解を与えることを避けるため、必ずチョンフンを通していた。
余談ではあるが、J1に昇格した際の特番でもチョンフンが通訳し続け、番組の終わり頃にMCが「ユン監督に日本語でもファン・サポーターへメッセージを」と振ったのだが、ユン監督が話そうとした瞬間に番組が終わってました。
佐賀在住じゃない自分は、ユン・ジョンファン氏がメディアで日本語を使っているところを見たことがない。

■ユン・ジョンファン(2006-2007)

2002年W杯の韓国代表(ただ出場はなし)という肩書きと、そのW杯イヤーにも関わらずJ2落ちしたセレッソに男気残留して昇格させたというエピソードを引っさげて加入した。
暗黒時代を抜け、サッカーの質が上がりつつあった鳥栖に「パスとはこういうものだ」という圧倒的な技術と精度を見せつけ、裏抜けやワンタッチでのゴールを得意としていたエース新居とは抜群の相性を見せた。
一方で、カードコレクターという華麗なパスからは想像も付かないような一面も見せ、相手とのいざこざの中で相手選手を突き飛ばしてレッドをもらっていた気がする。

2007年は衰えもあって出場時間も限られてきたが、スーパーサブとして活躍。この年で現役を引退。
コーチなどを経て2010年から監督となる……はずだったが、ライセンスの関係で松本育夫氏が名目上の監督となり、ヘッドコーチとして実質的には指揮。
S級を取得した2011年から名実ともに監督となり、J1昇格を含む鳥栖の黄金時代を作った。

戦術は自身の現役時代の華麗なプレイスタイルとは対極をなすような、ハイプレス&ロングボールサッカーを展開。
高木琢也といい、現役時代と真逆のスタイルにすると成功しているのは何なのだろう。
ターンオーバーが極端、起用と負荷が特定の選手に偏る、広島には勝てないなど、采配や戦い方に思う部分もゼロではなかったが、他に鳥栖を勝たせる手段があったのかというと、ユン氏が去った後の成績を見ると、なかったんだろうなぁと認めざるを得ない。

フロントとの間に何があったのかは分からないが、2014年7月に首位争いをしていたにも関わらず退任。
いろいろ後味の悪い部分はあるが、文句なしのレジェンド。
松本育夫氏、岸野氏が築いた情熱と根性サッカーにロングボールというエッセンスを加えたおかげで、佐賀県民は肉弾サッカーが大好きになりました。
ロングボール最高。

■レオナルド(2007-2008)

Jリーグに存在した数あるレオナルドの中の1人。
青森山田からジャパンサッカーカレッジ、そして東京ヴェルディへ加入からのレンタル移籍という形で加入した異色のレオナルド。
FWとサイドMFとして毎年シーズン27試合に出場し、4~5点取るというそこそこ良いの活躍をした。
日本での生活が長いためか、ブラジル人にありがちな小太りになる事象はなかったが、情熱的、可愛い、ボールを持ちたがるというブラジルのツボをしっかり押さえ、どっちかというとパス思考だったサッカーに、よく言えばアクセントを、悪く言うと噛み合わない感を出していた。
当時の指揮官、岸野監督の誕生日の試合では、ゴールを決めた際にユニフォームの中に仕込んでいた監督のトレードマークであった赤い帽子を被るパフォーマンスをし、イエローカードをもらっていた。
ゴール決めなかったらどうしたんだよとか、プレーしづらかったろとか、野暮なツッコミはなしにして、とにかくゴールを決めるんだとか、そういう強い気持ちを持った選手であった。
鳥栖から東京ヴェルディに戻ったが、出場機会に恵まれず、栃木、北九州、ジャパンサッカーカレッジ、秋田、青森と流れ、現在はJFLのFCマルヤス岡崎で現役続行中。
その課程で日本国籍も取得し、現在「盛礼良(もれいら) レオナルド」と名乗っている。
なお、青森に所属していた際に現地で見たが、鳥栖にいた当時からプレーも振る舞いもそれほど変わっていなかった。
結果的にカテゴリを下げていくことになった選手だが、こういう息が長く、いろいろなところから必要とされる選手は人格者なんだよなと思う。
現役を終えるときまで、持ち前の情熱と明るさと可愛さを貫いてほしい。

■ジョズエ(2007,2009-2009.7)

レオナルドと同様にユース年代を渋谷幕張高校という日本で過ごした和製ブラジル人。
2005年に岸野氏が目を付けてブラジルから引っ張ってきたアルレイ、セーザという若手ブラジル人たちが環境に馴染むことも試合に出ることもなく帰っていった経緯から、日本への適応というハードルを無くそうとしたのではないかと推測している。
日本への適応は急に都会から田舎へ来させられたこと以外は問題なかったものの、肝心の実力部分で出場を勝ち取るにいたらなかった。
直線のスピードは速いが、それ以外は記憶にない。
なんだかんだ町田へのレンタルを挟みつつ2009年まで在籍。
その後はなんだかんだした後にブラジルに帰ったらしいが、年間数試合の出場を続けていたような記載がwikiにある。
笑顔は可愛いかった。

■アンデルソン(2007-2007.7)

千葉に引き抜かれたエース新居の移籍金を使い獲得してきたエース候補のブラジル人。
2006年は水戸に所属し、まだ5強宣言以前の強くなかった水戸というチームで17得点をあげたストライカー。
弱小のエースの特徴である俺様気質、フィジカル強め、1人でゴリゴリをしっかり備えた選手で、当然のようにフィットしなかった。
水戸との試合で2得点をあげ、古巣にしっかりと恩返したのが最後。出場機会も減少し、鳥栖でのゴールもなくなった。
性格的な部分も含め、自身が王様になれるチームで輝くタイプだったと思うのだが、なぜかJ1清水にレンタル移籍。出場は1試合1分という形容しがたい結果で終わった。
清水さん、なんで取った。
2008年は横浜FCで16得点をあげたが、マークがきつくなるとボールを持つ癖が悪い方に出て後半結果を伸ばせずに1年で退団。
いろいろあって2014年に熊本に加入し、出場は多くないものの、スポットスポットで活躍したようだ。
2016年に熊本を退団。元気かな。

■キム・シンヨン(2007.7-2008)

アンデルソンと入れ替わりにセレッソ大阪からやってきた大型韓国人FW。186cmの高さと強さ、不器用だけど一応使える両足、ストロークが長くインターセプトされやすいドリブルという特徴を持ち、大きくて不器用でもドリブル好きな選手はいるということを私に教えてくれた選手でもある。
2007年は20試合で6得点と、二桁ゴールを期待させる働きをし、エースとして覚醒しつつあったFW藤田とツインタワーとしてブイブイ言わせた。が、2人ともヘディングでのゴールはあんま記憶にないぞ。
2008年はなんやかんやフィットせず、28試合2得点という成績で鳥栖を退団。
翌年は甲府では14得点をあげたため、使い方次第なんだよなーと思った次第。
が、2010年は20試合1得点と、J1昇格したチームの中で大きく成績を落とした。
甲府に残留したが、J1での出場は限られ、愛媛、韓国と移籍し、2015年には長野に加入していたらしい。各試合のスタメンは確認しているが、出場0なので本気で知らんかった。
笑顔が可愛かった選手。この頃加入した選手はみんな笑顔が素敵だったなぁ。

■パク・チョンヘ(2008)

この期間の中で全然覚えていない唯一の韓国人選手。
経歴を見るとU-20の韓国代表歴があり、そういえば世代別代表経験を持つ韓国CBが加入という話があった気がする。
世代別代表歴があっても泣かず飛ばずになることは世界各国で起こっているんだよということを教えてくれたのだと思う。当時のことはよく覚えていないけど。
wikiが2011年までの記録で止まっているが、元気でいてくれることを願う。

■トジン(2009,2012)

「ウェリットン・デ・モライス・コインブラ」、人呼んでトジン。
私が応援し始めてから初のブラジル直輸入のブラジル人選手。
大宮へ旅立ったエース藤田の穴を埋めたいとの思いで獲得されたはずだが、ブラジル人恒例のぽっちゃり体型で、過酷と有名だった鳥栖のキャンプ後半に来日。
当然体は絞りきれず、動きはもっさり、60分足らずで足がつるわスタミナ切れるわと「どうしてこうなった」感をピッチ上で醸し出した。
それでも時折、トラップやヘディングでの散らしやフリック、ポストプレーからのサイドへの大きな展開など、ブラジル人らしい技術の高さと視野の広さを見せていた。
特筆すべきはヘディングの技術であり、鳥栖のヘディングでのゴールという意味では豊田の印象が強いはずだが、フリックに関してはトジンが上だった。
夏頃には体も絞れてきたが、その前にハーフナーマイクが加入し、「どんなに疲れても最後まで使う」という厳しくも温かい岸野監督の方針のもとで覚醒。
ツインタワーは機能しない理論がそのまま適用され、ハーフナーマイクとの相性は良いとは言えなかった。
それでもなんだかんだ11ゴールを決め、ハーフナーマイクがどう考えても残らない中で次シーズンへの期待もかかったが、たぶん金銭面の関係で退団。
それでも観客(というかディープなサポーター)をワクワクさせるロマンあふれる選手であったことから復帰待望論もあり、そういうサポーター感情を知ってか知らずかJ1に昇格した鳥栖に舞い戻ってきた。
結果は23試合3得点と振るわなかったが、それでも出場すると期待せざるを得ない何かを持った選手だった。
国内の他クラブで見たい選手だったが、鳥栖以外はずっとブラジルでプレイしている様子。
もう一回見たいなぁ。

■サムエル(2009)

出身は中京高校というこの時期の鳥栖に流行した和製ブラジル人の1人。
左利きのMFということで期待が募ったが、一度も見ることなく去ってしまった。
たぶん良い人だったはず。元気でいることを願う。

■ホベルト(2009.8-2009.12)

大分がJ1で4位、ナビスコ優勝を成し遂げた際のブラジル人ダブルボランチの一角。
福岡、大分でそれぞれ大活躍したという九州人は足を向けて寝ることができない九州におえる助っ人中の助っ人。
所属の大分で大怪我をし、その大分も緑の地雷原とも揶揄されたスタジアムの影響で怪我人が続出したことも相まって残留争いへ。
外国人補強のために復帰の目処の立っていなかったホベルトが登録抹消。
その後ホベルトは割と早く復帰したが、選手登録できない状態だったため、急遽大分から鳥栖に来たという話すとややこしい経緯で加入した。
つまりは普通なら鳥栖がレベル的にも金銭的にも借りれなかった助っ人ということである。
J1でタイトルに多大な貢献をしたボランチはとにかく凄まじく、ボール奪取やカバーリングの守備面からボールキープや展開の攻撃面まで、チームの中心として君臨した。
ただ、味方のカバーを頑張った結果や本人のイライラ癖も相まってカードコレクターとなり、甲府との大事な一戦に不在に。
また、依存度が高過ぎたことによる不在時の預け先がない、守備がスカスカになるなどの問題も露呈し、酷い試合になってた気がする。
とても鳥栖にいていいレベルの選手ではなかったため、シーズン終了後に当然のように退団。
所属元の大分は降格&財政問題でトラブっており、大分にも戻ることもなかった。
その後に岸野氏率いる横浜FCで再開することになったが、所属先が見つかって本当にホッとしていた。
その後は何年か稼働したものの、怪我の具合の関係で引退となったが、元気だろうか。
2009年は本気で昇格を目指し、その昇格の可能性をギリギリまでつないでくれたのがホベルトなのだが、暫定を含めた最高順位を確認すると最高5位だった。
昇格圏に一度も届いてなかったんかーい!

■キム・ミヌ(2010-2016)

鳥栖におけるレジェンド外国人といえばキム・ミヌ。
うちの母親が大好きだった。
現在は韓国で兵役中だが、何度ミヌが兵役免除にならないかと願ったかは覚えていない。
大学在学中にPSVの入団テストを無断で受けたことで大学を退学になり、浮いてたところを我らがユン・ジョンファンが引っ張ってきて加入。
小柄ながらも強靭なな肉体、無尽蔵のスタミナ、精度そこそこのパワフルな左足と3拍子揃った鳥栖向きの選手だった。
ドリブルが得意という触れ込みで、最初は華麗に相手を交わしていくタイプかと想像したが、フィジカルを武器に割とゴリゴリ行くタイプで驚いた印象がある。
可愛い笑顔からは想像できないプレイで、そのギャップもうちの母親が好きだった。
日本でのプロ生活に苦しみ、病気と戦うことにもなったが、J1昇格から躍進、定着まで前線を引っ張ってくれた存在であり、引退ではない退団の際に私を泣かせた唯一の選手である。
なかなか大きな大会で代表に選ばれなかったが、ロシアW杯にて代表に選出され、2試合に出場した。
韓国代表の試合でミヌを見つけた妻はテレビに向かって手を振っていたが、たぶんうちの母親も同じことやってたはず。
入団時から背負っていた背番号10は現在暫定欠番となっている。絶対帰って来い。待ってる。

■ヨ・ソンへ(2010-2014.5)

通称「岸野の乱」にて主力が抜けた最終ラインを支えるために加入した韓国人CB。
高い、ちょっと遅い、可愛いという3拍子で鳥栖の最終ラインを支え、昇格に大きく貢献した立役者の1人。
毎回コーナーキックのターゲットとして上がっていたはずなのだが、パートナーの木谷に比べて全然ヘディングを決めない子だった。
だが、J1昇格を決めた2011年は40mのロングシュートを決めたり、アウェイ千葉戦で味方のシュートのコースを変えて土壇場で同点ゴールを決めるなど、印象深いゴールを決めたニクい子でもある。
キム・ミヌと同様に笑顔が可愛く、やさしい顔立ちだったこともあり、最終ラインでちょっと何かあるとソンへはそんなに悪くないのに「ソンへー!ソンへー!」とやたらとサポーターからヤジられていたのはちょっと可哀想だった。
2014年に兵役準備のために退団が決まった際には、最後の試合となるナビスコFC東京戦を観に行く予定がなかったのに急遽行くことを決め、試合後の挨拶の際にはずっと「ソンへー!ソンへー!」と叫んでた気がするし、周りも「ソンへー!ソンへー!」としか言ってなかった気がする。
兵役を経て2017年に松本山雅に加入したが、出場はほぼなかった。理由は分からぬ。
Twitterは日本語なので読みやすくて助かる。
ソンへー!ソンへー!

■ムン・ジュウォン(2010-2010.6)

ユンさんが連れてきたボランチ、両足蹴れる、仙台旅行に行った高橋義希の14番を背負う、という触れ込み3拍子で加入も何だかよく分からないうちにふわっといなくなった韓国人MF。
キム・ミヌ、ヨ・ソンへと笑顔が可愛い系韓国人と異なり笑顔のイメージがないのは、単純に出場機会が少なかったからか、それともそんな顔だったからか。よく思い出せぬ。
岸野の乱とは無関係に瓦解した中盤の底(ホベルト退団、高橋義希の仙台旅行)を支えることが期待されたが、ユンブランドのボランチが輝くことはなかった。
なお、この後の2名を含め、しばらくユン印の韓国人選手は当たらなくなる。

■パク・ジョンス(2010.7-2010.12)

ムン・ジュウォンに代わってユンさんが引っ張ってきたユン印の韓国人選手第2弾。
韓国3部からの加入だった気がするが、なぜそんなところから連れてきたのかというと金がなかったからだろう、たぶん。
ムン・ジュウォンより背番号14を引き継いだが、暗黒からの浮上時期を名実ともに引っ張り続けた高橋義希の背番号を、ぽっと出の選手に背負わせたのは間違いだったと思う。
遅い判断、何とも言えない技術に加え、14番を付けているというサポーター感情を逆撫でした設定で、見事にサポーターの批判の的となった。
良い選手だったとは言い難いが、獲得されたことも含め、いろいろ本人以外で良くない部分はあったよなーと思う。
辛い期間だったと思うが、彼の人生の中において鳥栖での経験が生きた場面があることを願う。

■キム・ジョンナム(2010.8-2010.12)

「金浩男」という漢字表記から、一部で「ひろお」と呼ばれる。
スピードで縦にぶっちぎる典型的ドリブラータイプの選手で、鳥栖加入後も積極的に縦にぶち抜こうとしてはボールをロストし、パク・ジョンスとともに鳥栖サポの批判対象となっていた。
なんでそんなに突撃してたのか分からなかったが、wikiを見たら危篤の父に自分の活躍を見せたくてJリーグを選んだらしい。気持ちは理解した。
突撃ボールロストは「豊田と萬代のツインタワーや!」というシーズン前の盛り上がりからの「全然機能しねぇ……」、「コーナーやクロスの時に2人ポジションまる被りじゃねーか!」よりもはるかにマシな事象だったはずなのだが、岸野の乱からの一連の流れにサポーターの捌け口になってしまった感がある。
その後韓国ではそこそこ活躍したようなので、やっぱり能力のある選手だったことが証明された。

■キム・ビョンスク(2011)

山形のJ1初ゴールを決めた持っているサイドアタッカー。
大学中退からポルトガル、山形を経て鳥栖に加入した異色の経歴を持つ。
イマイチ思い出せなくて、17試合4ゴールという悪くない成績を見ても正直どんな選手だったかやっぱり思い出せない。
右サイドは早坂良太、左サイドはキム・ミヌのイメージが強く、ゴールも岸野氏率いる横浜FCとの最後の一戦でミドルシュートを叩き込んだ記憶しかない。
残りの3つって何だっけ?マジで。
J1昇格を果たしたチームに残ることもなくサウジアラビアへ移籍。オイルマネーかな。
記憶には残らないが記録に残っている希有な選手。

■キム・ミョンヒ(2011)

「金 明輝」と表記する在日枠で加入した選手で、現在鳥栖の監督を務める。
当時富山からの加入で、しかもそれほどの実績もなかったため、「なんで加入したの?CBの数合わせ?」などといろいろ邪推された。
実際の加入理由は当然不明だが、良い兄貴分として昇格を果たしたチームの縁の下を支えた。
出場は結局ゼロで、加入した2011年にそのまま引退となったが、同じく引退する新居と合わせて引退セレモニーが行われた選手でもある。
昇格を正式に決めたホーム最終戦で、観客も2万人を超えていたため、新居を知っていた人は多くてもミョンヒを知っていた人は限りなくコアな層に限られ、セレモニー自体がちょっと可哀想な感じもした。
(遠征して現地にいた私もまともに見たのは初めて)
ただ、ユース世代の育成やトップチームの立て直しの手腕を見るに指導者としては優秀な人物で、誰が取る判断をしたのかは分からないが、「ええもん取ったわ!」状態である。
選手としてはイマイチでも指導者としてはピカイチという辺りが限りなくカツノリ(プロ野球の野村克也の息子。めっちゃ人格者でコーチに引っ張りだこ)っぽいイメージがあり、心の中ではカツノリと呼んでいる。
「明輝」と書くことから、当時2ちゃんねるでは「メーテル」と呼ばれていた。
鳥栖の指導者として、引き続き頑張ってほしい。

■キム・クナン(2012)

身長193cmという巨体を武器に、J1初年度の最終ラインを支えた躍進の立役者の1人。
レンタル元の横浜FマリノスではFWなのかCBなのかよく分からず、前線で使われるけどゴールから離せば怖くないというスラムダンクの魚住のような存在感で漂っていたところを、鳥栖が獲得。
本人もCBをやりたかったらしく、またJ1昇格を遂げたシーズンの主力であった木谷が大怪我で離脱したため、シーズンを通して最終ラインを守り通した。
とにかく空中戦に強く、ハイボールの対応に難のあったGK赤星の弱点を見事にカバーしてJ1でも戦える守備の整備を実現し、ビハインド時にはクナン大作戦という名のパワープレイに興じた。
なお、脚も速い方だったため、裏抜けヨーイドンをされてもある程度対応できていた。
鳥栖での活躍が評価されて新潟に移籍したが、あんまり印象に残っていない。豊田とガチガチやり合ってた気がする。
なお、キム・クナンがいなくなった鳥栖はハイボールやクロス対応で後手に回り、GK赤星も前年とは見違えるようなパフォーマンスに終始するに至ってしまった。
最終ラインはGK林、DF菊地の加入で立て直すことになるのだが、それはまた別の話。
なお、2012年のホーム最終戦を観戦した際、夜に歩いているのを見たのだが、デカくて怖くて声をかけることができなかった。

■ロニ(2013-2013.7)

退団したトジンに代わり加入したブラジルFW。
ヤンチャな顔、頭のトサカ、ドリブルが得意という3拍子で加入。
前年躍進はしたものの、ロングボール以外でボールを前に運ぶ手段が少ないことが如実に出てしまっていたので、たぶんそんな経緯で選んできた選手なのだろう。
とはいえ、基本戦術がロングボールによる「戦術豊田」なのだから、そこにフィットできないとどうしようもないという大前提が抜けていたため、見事にフィットせず、半年でバイバイとなった。
この後、前線をできるブラジル人の加入がないところを見ると、いろいろ反省したのかなとも思う。
若かったことや頭のトサカも相まってヤンチャなイメージしかないが、少しは落ち着いたのだろうか。

■ディエゴ(2013-2013.3)

ごくごく一瞬だけ所属していたコロンビア人FW。
同じくコロンビア人のジョナサン(後述)の加入もあり、「完全にジョジョ」とかやる夫のAAの1つである「正解:コロンビア」などでネットで微妙に盛り上がっていた。
その盛り上がりとは裏腹に、家庭の事情ですぐに退団。
事情が何なのか分からないが、家族の病気とか命に関わることじゃなかったと信じたい。

■ジョナサン(2013)

前述のディエゴと同時に加入したコロンビア人MF。
FC東京とのナビスコカップ予選(アウェイ)でボランチとして出場していたのを現地で見る。
長い脚でボールを刈り取る場面もあったが、なにぶんJ1所属の選手とやりあうには経験値が足りず、やられるだけならまだいいのだが、荒いプレイになってしまっていた。
この試合で出場していたFC東京のMF野澤が怪我をした際、何か関わってた気がする。
MF三田とMF野澤を「良い選手だなー」と見ていた中での負傷だったので、なんか本当に申し訳ない。
ジョナサンは1年で退団し、行方もよく分からないが、野澤は愛媛でレギュラーやってます。

■キム・ジョンヤ(2013)

「金 正也」と書く、在日枠でガンバ大阪から加入した長身CB。
いなくなったキム・クナンの後釜として期待されたが、キム・クナンほどの圧倒的な高さはなく、最大限頑張ってくれていたはずなのだが、結果的に鳥栖の最終ラインの崩壊に関わることになってしまった。
キム・クナンほどオラオラ系でもなかったことから、気の優しいソンへとの間でどっちが指示するのかよーわからん感じのなあなあになったいたのも良くなかったか。
アウェイ浦和戦で6点取られた際にヨ・ソンへと2人で最終ラインで呆然としていたのはよく覚えている。
俺もゴール裏で呆然とその光景眺めてたからね。
その後、ガンバ大阪や仙台等での活躍を見ると、やっぱりサッカーは組み合わせのスポーツなんだよなと実感する。
引き続き現役で頑張ってほしい。

■ニルソン(2013.7-2013.12)

ロニ退団後に加入したブラジル人ボランチ。
なぜか存在している細い三つ編みの髪の毛、隙あらばやる祈りのポーズ、技術はあるけどそれを生かしたり殺したりの独特のリズムという3拍子で突然加入。
加入ほどなくベンチ入りしたアウェイ柏戦ではゴール裏で「選手名のコールどうする……?」とざわつきながらもニルソンコールの練習していた気がする。
その柏戦で敗戦濃厚の状態からなんとなーくミドルシュートを決めたが、そのまま敗戦。
翌日の関東在住の鳥栖サポ向けのファン感に参加した私は、どういう巡り合わせかニルソンのサインをもらうことになった。
「ニルソン」と書いてあるのかどうかも分からないサインが我が家にはまだ存在している。
シーズン終了とともに退団となったが、個人的な部分も含め、記録より記憶に残る選手だった。
なお、ファン感でサインもらった際には笑顔になってくれたが、ちょっと怖かった。
たぶん、本人が全然日本になれてなかったのが原因だけど。

■チェ・ソングン(2014-2016.7)

韓国の世代別代表で10番を背負っていたという触れ込みで甲府から加入した選手。
そんなに良い選手が甲府から!?と思ったが、ユーティリティさはあるものの、フィジカル、技術、判断すべてが中途半端にまとまっていた。
長い在籍期間とそれなりの出場数、トップ下、サイドMF、WB、ボランチ、SBと、思いつく限りのポジションで一通り起用されたが、最後までどのポジションが適性なのかよく分からない選手だった。
ユン監督時代からちょこちょこ使われてはサポーターに疑問に思われ、ユン監督が去った後も3人の監督によって起用されていたため、使われるだけの何かがあったんだと思われるが、サポーターの攻撃対象になってしまった。
2015年にホームで試合を見た際は3-4-2-1の右WBで起用されたが、前線に渡す先がなくバックパスを選択したらヤジが飛び、突破を試みてロストしたらヤジが飛ぶという、空振りもストライクの見逃しも許さない少年野球の父兄か!みたいな環境でプレイしていたのを見て、さすがに同情した。
環境が判断を鈍らせる要因だった可能性もあるため、自分を生かせる適性さえ見つかればもっと幸せな道もあったのかなと思う。
2014年の最終戦のアウェイ鹿島で、右SBの丹羽をチェ・ソングンが、MF藤田の不在を金井が必死に穴を埋め、勝利に貢献してくれたことは忘れない。
2人とも足つって途中交代したけど。

■キム・ミンヒョク(2014-2018)

強面、おばちゃんパーマ、高くて強い、という3拍子揃った韓国人CB。
鳥栖の韓国人CBに概ね外れなしという伝統にたがわず、加入初年度から鳥栖の最終ラインを支えた。
足元は得意ではないが、強気にプレイするので何となく苦手そうには見えなかった。強気は正義。
良いCBでありつつ、義理堅い顔には見えなかったので、そのうち移籍するのかなと思ったら、兵役前まで鳥栖でプレイするという意外な結果となった。
任侠系の顔なので、そういう意味だと義理堅かったのかもしれない。
2014年のシーズン途中までの躍進に貢献した選手なのだが、ユン監督の解任やら安田理大が痩せてるやらいろいろなことがあったシーズンなので、2015年以降だんだんと鳥栖から離れざるを得なかった私からすると、語るエピソードが少なくなってしまう選手だ。
ただ、躍進の時代の経験がほぼないにも関わらず、鳥栖に愛着を持って、鳥栖を支えてくれたことには本当に感謝しかない。
金崎との一件で騒がれたが、強面でも心優しい系の人物のはずである。たぶん。


■ペク・ソンドン(2015-2016.7)

韓国のメッシという地雷臭のする肩書きで森下監督とともに加入した韓国人FWかMFかのどっちかのポジションの選手。
メッシはドリブルの選手ではなく、あくまでも点取り屋だと思うのだが、○○のメッシという例に違わず、典型的なドリブラーだった。
ドリブルを仕掛ける位置が低くて交わしたとしても自分のシュートレンジに到達しない、サイドで起用すると縦も中にも行けない、ドリブルを生かすためのプレイがない、という良くないドリブラーあるあるの残念仕様で、森下監督の積極的な起用もあり、チェ・ソングンと同様に鳥栖サポからの批判を集める形となってしまった。
その後長崎へ移籍したが、そこでも何とも言えない結果を残し、韓国へ帰っていった。
長所を生かすための方法を学べば一皮剥けたのかもなぁと思うばかり。ドリブラーは難しい。


■最後に

10年の歴史の中で27名の外国人選手がサガン鳥栖というクラブを選択し、そしてプレイしてくれていた。

試合で貢献してくれた選手、見えないところで貢献してくれた選手、その両方を残せなかった選手。
いろいろな選手がいたが、真っ向から否定できるような選手はいなかったなというのが感想だ。

そもそも性格的に人が批判していると擁護したくなるタイプの人間のため、批判が強かった選手に対しても甘口評価をしているというのは正直あると思う。

ただ、選手もサラリーマンのように「行けと言われたから来ました」みたいな状態ではなく、様々な思いや気持ち、覚悟を持ってサガン鳥栖というクラブに足を踏み入れたのだと思う。
大人になればなるほど決断というものの難しさ、重さを感じるようになったから、尚更そう思うのだ。

誰かの項目で書いたが、サガン鳥栖の選手としての成功、失敗とは別に、サガン鳥栖に来たことが、その選手の人生にとって何かの価値になってくれることを、その選手を応援した1人のサポーターとして願う。

ついでにもう1つだけ願うなら、大きくなった子どもと一緒にサガン鳥栖の試合を見た際、その子どもが憧れ、そしてその子の思い出になるような外国人選手がいてくれると嬉しい。
何年後か分からないが、子どもと一緒に歴代の外国人選手を振り返る楽しさが増すからだ。

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