【短編小説】セコンドアウトワンスアゲイン【雑文】

 見知らぬホテルの一室に僕はいた。

 綺麗に敷かれたベッド一つが、部屋の大半を埋め尽くしている。間接照明の橙の光が、部屋のあちこちからぼんやりと放たれ、それは何処か官能的な印象を僕に与えた。窓の外は、曇り空の薄暮だった。膿んだ白い雲が、空一面を覆っている。一人の僕は外の景色をじっと見た。

 山並みは見えず、かといって都会の熱帯雨林が広がっているわけでもない。ただ、ビルがちらほらと生えている田舎の街並みがあった。

 僕はぼんやりと突っ立っていた。真顔だが、何も感じていなかったわけではない。酷く絡み合ったひんやりとしたものが、尻に沈殿していくのを感じていた。いつもこうなる。それが嫌でたまらない。

 振り向き、気が乗らないまま部屋の外に出た。

 そこは体育館だった。金持ちの学校とか、県の施設にあるような、大きく広い体育館だ。無数の観客や選手の気配を肌で感じる。だが、その意識が僕に向くことはない。僕は所詮ただの一人だ。

 天井からは冷たい太陽が差し込み、目の前には眩しく輝くリングがあった。僕の第一試合が始まうとしていた。コーチや先生に押され、僕はリングの中へ入っていった。

 マウスピースを何度か噛み締めながら、僕は対戦相手を見た。強そうだと僕は思ったらしい。呼吸がいくらか早くなるが、酸素はいつもよりうまく肺に入っていってくれない。拳の握り方さえ忘れてしまったような感覚に落ちる。尻にはより多くのひんやりしたものが沈殿してきた。いやだなと思った。めんどくさいなとも思った。そして、別にいいやとも、やはり思ったのだ。帰りたいと思った。どうせ、すぐ帰ると思った。

 ゴングが鳴ったらしい。息を一瞬吸い込み止める。僕と対戦相手は互いに距離を一気に縮め、鋭い息を吐きだしながら、最初のジャブをお互いに打ち出した。

×××

 ぱちりと目を開けた時にも、やはり僕の尻はひえたままだった。すぐに温まることもなかった。機嫌のよい昼日が差し込む部屋で、暖かい羽毛布団にくるまれているのにも関わらずだ。

 しばらくの間、僕の頭は覚醒せず、脳の周りには、マイナスな感情がうねうねと生きた霧のようにまとわりついた。それがようやく晴れてきたらしく、鼻の中にゴミ箱の腐った精子の匂いが入ってきた。そこまでして、僕はようやくここが自分の部屋であることがわかった。

 ああ、そうか、もう終わったもんな。

 ぼんやりとそう思いながら、寝返りを打って、天井を見る。静かな天井。薄暗く、いかにも休日の一人暮らしと言った白さをしている。

 壁にかけられたアンティークな掛け時計を見る。チビデブの針が、てっぺんまでもうあと数ミリという位置にあった。壊れかけているせいか、かちかちと細かく痙攣している。まるで目に見えない異物が、彼の登頂をおしのけて、拒否しているようだった。

 もう戦わなくていいんだ。

 定期的に見る夢だ。シチュエーションは見るたびに異なるけど、大まかな筋は変わらない。始まりも、終わりも。夢を見るたび、その夢の中で、僕が同じ感情へ収斂するのも変わらない。そして、そのことが、僕の目覚めを悪くするのも変わらない。

 もう戦わなくていいんだ。

 その言葉は、僕を安心させるもののはずである。僕の最後の夏は、一年も前に終わった。いや、もう二年がたつ頃なのか。あっというまの三年間とはよくいうが、その後も、わりとあっという間に時はたつものである。

 毎日汗を流し、拳の痛みに耐え、必死に体を鍛えた。口が血の味を忘れたことはなかった。そんな三年間と、その後の二年間の進みに大した違いはなかった。どっちにしろ、適当に生きて、負け続けている僕には、違いがないのは当然なのだろう。

 もう戦わなくていいんだ。

 腹をかく。鈍くすれる音を立てる。程よい刺激で気持ちが良かった。だが、水っぽく緩まった脂肪が、どうしても嫌悪心を引き立てる。

 右手の指を軽く曲げる。浮き出た指の付け根の関節部を、左手の指の平で撫でる。本当にわずかに、まだ固い皮膚の感触を感じられる気がした。 

 僕は本気で好きだったわけではない。わかっている。疲れるのは嫌いだったし、殴りあいなんて御免の性格だった。だからこそ、僕は敗者だったのだろう。でも、やったことは、感じたことは、必ず記憶になる。

 コーチのくたびれたミットが一瞬脳裏をよぎる。そこから芋ずる式に、色々な事が思い出される。夜の部室と白い蛍光灯。オレンジの夕暮れとダンベル。ぼろぼろに黄ばんだバンテージ、染みついた赤が落ちないマウスピース。汗の匂いと血の味。

 朝のランニングコース。近くの神社の階段。踏み潰したシューズ。実家のトレーニング器具。汗と摩擦で擦り切れたヨガマット。

 一人、僕はバンテージを巻く。一人、僕はマウスピースを口にする。一人、僕はリングに入る。何度も何度も、わかっていながら、心ではそれを受け入れながら、少しは望んでしまいながら、それでもの、もしかしたらを、小さく秘めて。

 いや、もう終わったんだ。

 寝返りをうって壁の方を見る。分厚い壁だ。ニッケルが中いっぱいに詰まっているような気がする。この壁から隣の声が聞こえた試しがない。

 無駄な三年間はもう終わった。よく、やったことに意味がある、そんな言葉を聞く。だが、だとしたら、勝利という価値に意味がないと言えるのか。そんな言葉が、敗者を慰めるだけの綺麗事じゃないと言えるのか。だから、僕はそんな言葉を受け入れない。受け入れることができない。価値を得られなかった僕には、三年間は意味がないものだったのだ。

 いや、意味はあった。自分という人間を知れた。そのちっぽけさを。敗者である人生を。それでいい。それで、僕はこの先を生きていけばいいんだ。

 まだ、暫くは、布団のぬくもりに包まれていたかった。でも、もう一度眠る気にはなれなかった。冷えた尻のせいで、寝れそうにもない。寝たって、この夢の続きは絶対に見れない。

 どうすれば、この夢を変えることできるのか。それは何となくはわかるけれど、でも、それができないから、やはり僕は自分が嫌でしょうがなくなるのだ。

 だから、忘れよう。そうさ、人生はそれだけじゃない。現に僕は生きている。もう少しくるまって、それこそ尻が温まるぐらいまでくるまって、そうしたらR18サイト見て、すっきり下の処理をして、それから起きよう。

 目を閉じたまま、燻んで歪んだ鐘の音を聞いた。チビデブの針はてっぺんを越えたみたいだった。


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