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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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DOGMANと人間が透き通る瞬間について

序文

 「DOGMAN」という映画を見てきたので、それについて書く。なるべくネタバレは避けて自分の主観で感想を書くけれど、完全に避けられるとは思えないので、このくらいなら鑑賞前に見ても大丈夫だろうというエリアを最初に用意した。ちゃんと見たい人はもう何も読まずに見に行った方がいいと思うけど、ちょっとだけ他人の感想を聞いてから決めたい、みたいな人はそこだけ読んだらいいと思う。
 基本的なことで言うと、私は大好きだし、手元に置いておきたい作品だと思った。そして見終えた時にすごく「うれしい」と感じた。この「うれしさ」については正直これまでに感じたことのない感覚だったのでまだ上手く捉えられていない。ネタバレエリアの方で言語化を試みることになると思う。
 あと、喫煙者は間違いなく煙草を吸いたくなると思うので、前後のニコチンタイムを確実に確保した方がいい。マジでずっと煙草吸ってる。


ネタバレをなるべく排した感想

 まず、これは大変失礼な言い方になるのだけれど、敢えて言うと、公式Xアカウントの内容はすべて無視して構わない。トレーラーも見ない方がいい。「規格外のダークヒーロー爆誕」という文言も「バイオレンス・アクション」という区分も完全スルーしてほしい。リュック・ベッソンについてもレオンについても別に知らなくてよい。私も知らないで見たし。そもそもこのnoteを覗きに来ている時点で相当この映画への適性があると思うので、公式サイトの内容とフライヤーデザイン(個人的に好きなのはこれ)を見て、なんかいいなと思ったら見てほしい。それ以上の情報はなくていいんじゃないかなと思う(この辺りに関してはネタバレエリアの方で別項を設けた)。
 印象としては、すごく静かに流れる映画だなと思う。バイオレンスもあるし、怒りも悲しみもあるし、そのひとつひとつは人格に刻まれてしまうくらいの激しさを持っているのだけど、一方でそのすべては主人公の「自分が経験した過去」として語られるから、常に一定の冷静さを通して俯瞰される。水底の砂が俄かに舞い上がってはまた降り落ちていくのを繰り返すような構成、みたいな言い方をしてもいいと思う。そういう、「過去の自分を今のわたしが振り返る」という距離感が繰り返されたあとのあのラストが個人的にはぐっと来た。そこで初めて「今のわたし」の感情を生で感じさせてくれるのがとても響いて、見ていて「うれしい」と思った。多分犬だったら尻尾を振っていた。
 先ほど色々なものを「見なくていい」と言ったのはそういうところで、見る前にこちらの感情を煽り立ててくるような要素は本当のところこの映画にとってノイズでしかないのではないかと感じる。規格外とか爆誕とかアクションとかそういうのは一旦忘れてもらって、ただ「ドッグマン」と呼ばれた男の人生を静かに見つめるというのが、この映画の温度感には一番合っているのではないか、というのが個人的なイメージだ。

 あと、これはノイズを追加する行為なので既に見に行くと決めた方はもう引き返してほしいのだけど、この映画を見た時に「グラン・トリノ」という別の映画のことを思い出した。一昨年に劇場の企画で素敵じゃないかの吉野さんがおすすめされていたのを見て完全に刺さったという話は今したくなったからついでに書いただけの余談として(本当にいい映画に出会えたと思う、機会があればお礼を申し上げたい)、そもそも自分はこういう話が好きな人間なのかな、とは思うなどした。ベクトルは違えど、「自分の人生を自分なりの落としどころで決着させる」話、みたいなところはある種の共通項だと思う。ちなみに今この表現を打ち込みながら自分が「ぼくらの」という作品を愛してやまないことを思い出した。やっぱりこういう話が好きな人間なんだなとしみじみ実感している。ここまでの話にも何らか心当たりがあればぜひ見に行ってほしい。

ネタバレ感想

 以下、本編のネタバレを大いに含むので、これから見るという方はできればここで引き返して劇場に向かってほしい。

①広告宣伝について

 ということで、これを読んでいる皆さんは既に劇場へ足を運んだであろうと信じて、細かい感想を書いていく。

 ネタバレなしエリアのところで広告関連について少し触れたのだけど、実際この映画の宣伝ってすごく難しいんだろうな、と思った。感情を煽って関心を引かないとひとは来ないだろうし、でも映画の内容的にはそれをやるとミスマッチだろうし、でも広告であるからにはまずもって関心を引かねばなるまい、みたいな葛藤の末にああいったかたちになったのだと信じている。そうでなかったらきっと本編を見ずにやっているか、本編と馬の合わないひとがやったのだと思う。

 ひとつずつ詳細を述べていく。
 まず、公式Xアカウントの内容はすべて無視して構わないと思うというのは、あの「犬の可愛さ」をメインにすごくポップな文面で押し出す方針が、この映画を見るべき人間にリーチした表現にはなっていないような気がするからだ。確かに犬たちは可愛かった(これは本当に可愛かったのでそこを押し出したい気持ちも決して理解できないものではない)けれど、少なくとも私は可愛い犬を見るために劇場へ行ったのではないし、可愛い犬を見たいだけならテレビの動物番組とか、それに特化したXのアカウントとかを見ている方がお得だと思う。犬の可愛さ見たさに劇場へ行った人はそれなりに満足するだろうけれど、この映画は別にそれをメインテーマに据えているわけではないだろうし、そもそも犬好きに見てほしくて作ったわけでもないだろう、とも思う。ヴィーガンメニューが「ヘルシーで女性にもうれしい♡」みたいな売り文句つけられてるのを見るような気持ちになる。そうかもしれないけどそもそもはそこじゃないだろ、という。
 それからトレーラー、特に日本版のものは本当に見なくていいと思う。「『レオン』の衝撃から30年――」という煽り文句で始まるのだけど、私はリュック・ベッソンもレオンも知らないで見に行ったし、むしろそこと比較せずに純粋に本編だけを見られて幸運だったと思っている。映像自体もすごく劇的な、正に「ダークヒーロー系バイオレンス・アクション」なものとして作られているけれど、前述の通り本編自体は静かな印象さえ受けるようなものだし、かなり尺が割かれているドンパチ系のバイオレンス・アクション成分は本編だと本当に終盤にしかないので、シンプルにミスリーディングなんじゃないかと思う。
 煽り文句に使われている「規格外のダークヒーロー爆誕」も相当ミスリーディングな感じがする。ほぼ断言していいと思うけれど、「規格外のダークヒーローの爆誕」を見に行くとものすごく、ものすごくがっかりすることになる。これは多分定義上のややこしさにもよるというか、「非合法な行為にも手を出す主人公」というミニマムな意味では確かにダークヒーローであるものの、より一般的に想定されるであろう「悪ではあるが強い力を持って社会に正義を為す者」のような定義には全然当てはまらない、というズレも一因ではあるかもしれない。でも、だとしても言い方が煽りすぎているし、作中で確かにそれらしき描写(クリーニング屋さんの件)はあるけれど、あれを後者の定義に即したものとして売り文句に据えるのはやっぱりちょっと変な気がする(これについては後述する)。
 先ほどもまとめとして書いたけれど、端的に言ってしまえば、公式Xアカウントもトレーラーも煽り文句も、本編を見る上でノイズになる情報を盛りだくさんにして全然違うものとして騒ぎ立てるように宣伝している感じがする。そんな劇的でキャッチーな映画じゃない。わざわざ煽り立てるような表現を使ったところで鵜吞みにして見に来た人ががっかりするだけだろうし、なんなら私が事前に見て「あー、そういう種類のダークヒーローものなんだ、じゃあいいや」となっていた可能性も(これは結構濃厚に)あったわけで、なんだか映画の内容や想定される「刺さる人」の像とかに合わない宣伝をしているように感じた。映画の広告の手法として主流なんだろうか。やめた方がいいと思う。

 以前ツイートもしたのだけど、私は映画を見に行くと結構な高確率で「予告編を見て泣く」傾向にある。別に悲しい話とか感動系の話でなくても、「戦艦がカッコ良く浮上してくる」とか「魔法少女が華麗に変身する」とか、そういう時の高まりみたいなもので泣いたりする。そもそもメンヘラ的な特性があることを勘定に入れるとしても予告編で何をこんなに感極まっているのか、と自分でも意味が分からなかったのだけど、「煽り立てる宣伝広告」というものが主流なのだと仮定すると腑に落ちるなと思った。本編の内容にかかわらず、とにかく見る人の感情を強引に揺らしてしまうことを目的として作られた広告なら、そら見て泣くだろう。
 これが本編を見るとそんなでもなかったりする(面白かったけど別に泣かなかった、みたいになる)ことがしばしばなのも、予告編が過剰に劇的に作られているからなのかもしれない。ちょっと今後意識して見てみようと思う。

②犬としてのドッグマン

 今手元に、見終わった後ロフトで買った無地ノートを持って喫茶店に行って書き散らしたノートがある。そこに「ひとというより犬なんだと思う」と書いてあってそうなんだよなと思った。主人公の「ドッグマン」ことダグラスは、機能的には「犬を束ね育てるブリーダー的な人間」なのだけど、精神的なありようとしては「群れの一員としての犬」なのだと思う。
 作中に登場する犬たちはみんな個性的で、それぞれに得手不得手みたいなものがあって、役割分担のようなものも存在し、群れでひとつになって行動する。それはダグラスのあり方とも近いのかなと思う。先ほど「クリーニング屋さんの件をヒーロー的な行為として売り文句にするのはちょっと変な気がする」という話をしたのはこの点で、とはいえこれもやはり「ヒーロー」という言葉の定義と使用によるとは思うのだけど、俗に言われる「ヒーロー」の英雄性とか信念みたいなもの、もしくは対象として想定される社会制度や国家みたいなもの、という規模がこの行為にはないと思う。
 マーサはあくまでも「いつもいい仕事をしてくれるご近所のクリーニング屋さん」だし、ホアンも「この前部屋の配管を見てくれた腕のいいご近所さん」だし、ダグラスはそのどちらに対しても「自分に手を貸してくれた人」という以上の思い入れがないんじゃないかと見ていて思った。マーサが困っているから助けてやってくれというホアンの依頼をダグラスはすんなり受けるけれど、そこには多分思想や信念と呼ぶべきものがない。マーサが困るような世の中のあり方を変えたいとか、罪のない人から金を巻き上げている悪人を許せないみたいな、そういう壮大さがない。もっと目の前の、手の届く範囲の生活に存在しているものを対象とする「この人は私の困りごとを解決してくれた、私もこの人の困りごとを解決する」という応答以上のものは含まれていないように思うのだ。生きている世界が狭いというか、目の前の状況に対応することに終始しているというか。
 だから、エル・ヴェルドゥゴに脅しをかけた時も、保険屋のアッカーマンを殺した時も、どこか「詰めが甘い」感じになるのだと思う。その選択肢を取った時に後でどうなるのか、自分に見えない範囲に何があってそれがどう動くのか、というところを想定、想像する力が弱い印象を受けた。

 これは決して「詰めが甘くて拍子抜けした、つまらなかった」という映画へのダメだしではなくて、ダグラスのキャラクターデザインとして秀逸だなと思うところだ。
 犬小屋に入れられるもっと前から、目の前の父と兄とに怯え、その時その場の無事と生存を確保することにリソースの大半を割かざるを得なかったダグラスが、「その時その場」以外の広い視野を持つ余裕のないまま成長し、それを能力として訓練されないまま大人になっていった結果がこの想像力の弱さなのではないかと思う。盗みや殺しを犯罪としては認識しつつも、それらを「環境に強いられた罪」「正当防衛」として大した罪悪感を感じていないように見えるのは、法や倫理や正義といった、概念的で、直接的に生存に関わらない事柄に対する想像力が欠けていることの表れとも解釈できるのではないか。
 そして多分、このあり方は動物的で、きっと人間よりは犬に近い。関わりを持った相手であるホアンやマーサ、そしてエヴリンといった他者についても、恐らく「犬ではないけれど協力し合って共に生きる『群れ』の周縁」くらいの認識の上で、その「群れの仲間」に手を貸した、というような温度感だったのではないかと思う。

③ドッグマンの人間性

 ダグラスというひとりの人間を「犬のような人間」という評価に留めないのが、施設でシェイクスピアを演じることから始まる虚構と演技の側面だ。鏡に映る自分は変えることができる、というのがメイクと共にサルマから教わったことだったけれど、逆に言うと「まず鏡に映る自分を変えてしまって、それを依代のようにすることでしか想像力を起動することができなかった」ということなのかもしれない。いずれにせよ、この要素が加わることでダグラスの言動は人間味を獲得していったのだと思うし、或いは詩的になっていったのだとも思う。
 個人的に、アッカーマンについて話し始める時に「『出会い』があったの」という切り出し方をしていて、きれいな言い方だなと思ったのがとても印象に残っている。あと、サルマの楽屋に行った時の感情を押し殺しながらのやりとりとか、アッカーマンが楽屋にやってきた時の受け答えとかも全体にきれいな言葉だった印象だ。単なる犬的な存在であればああいう表現にはならなかったと思うし、言語コミュニケーションという人間独自の行為におけるベースはシェイクスピアなんだろうなと思った。
 逆に、シェイクスピアの話題が出る前のダグラスは台詞がすごく貧しい。母の残した雑誌に触れてからも文はほとんど出てこなくて(「車だよ、警察の車を探すんだ」とか、「(子犬は)自分で面倒見るから」くらいがギリ単語でなく文で喋っているところだったと思う)、施設に入ってからも、「読書家」とは称されつつ会話シーンはない。回想の中のダグラスがほぼ初めてしっかりと言語コミュニケーションをするのがサルマとの会話であり、シェイクスピアを演じるシーンになる。幸せな記憶として存在した「レコードをかけながら料理をする母」のシーンでも母はダグラスにほとんど話しかけないし、ダグラスも言葉では応じない。あの状態の家庭で会話が活発だったとも思えないので、そこで獲得できなかった言語コミュニケーション能力が演劇を通して一気に成長した、という推測もできるだろう。やっていることはアウトローだし生きてきた環境も壮絶だった(し、翻訳段階での味つけによるところもあるかもしれない)けれど、彼の言葉はきれいだ。虚飾はなく、表現が豊かでウィットも効いていて、語り口にも落ち着きがあって、まっすぐで。
 だからこそ、「静かに流れる映画」という印象になるのだろう。行動原理や倫理観が犬に近いものだったとしても、そして語られる経験がどれほどショッキングなものでも、それを語る知性と表現が十二分に人間的だから、聞き手であるエヴリンも、そして観客も、余計なスリルや緊張を感じさせられることなく彼の話を聞くことができる。そういう構図なのだと思う。

 そろそろ察されるであろう通り私はこのダグラスというキャラクターがとても好きなのだけど、彼に対して反応したセンサーがふたつあると思っている。ひとつは「痛みを抱えているもの」。過去に受けた苦痛が今もなお深い影を落としているようなひと。もうひとつは「慈愛に満ちた怪物」。常人とはズレた思考回路や倫理観、価値観を持ちながらも、その尺度の上で周囲の人間や存在を慈しむ存在。ドッグマンとして恐れられながらも静かにホアンの話を聞き、「マーサにもう心配しなくていいと伝えて」と微笑したその姿が、アンバランスな不気味さを滲ませつつも確かな慈愛に満ちて見えたのがとても好きだった。こういう人の出てくる作品知ってたら是非教えてください。

④犬的なコミュニティと愛情のあり方

 そもそも何故この映画を見に行ったのかという話をここで急にすると、最近「女装する男性」という存在にとても興味があったというのが直接の理由だった。確定申告がてらなんか映画でも見ようかな、というので時間的にちょうどいいものを探していた時にポスターを見てぐっときて、あらすじでこれだと思って見に行った。興味があったと書いたけれど別にそうなりたいとかではなくて、正直きれいな女性よりドキドキする時ある、みたいな言い方のほうが近いと思う。あとドラァグクイーンの美しさって凄まじい。この辺に関してはまた書きたくなった時に書くと思うのでこのくらいにしておく。

 戻ると、作中で描かれていたドラァグクイーンのコミュニティがめちゃくちゃ「犬的」だった、という話をしたい。ここでの「犬的」という表現はダグラスが愛し愛されたあの犬たちのコミュニティと同じ温度感の愛があるコミュニティだったという意味で、褒め言葉だというのを一応書いておく。
 というのは、作中でダグラスの名前が呼ばれるシーンってすごく少なかったと思うのだ。多分一番本名を呼んだのはエヴリンだと思うけど、同じくらいの回数源氏名を呼んでいたのがこのドラァグクイーンとしての同僚たちだったと記憶している。ダグラスが犬たちの名前を呼ぶように、ドラァグクイーンたちは互いに源氏名を呼び合う。序盤でダグラスが「犬は犬種の違いにかかわらず、夜は同じところで群れとして眠る」みたいなことを言ったところもあったと思うんだけど、それに近いものも微かに感じるというか。そもそもダグラスの元に身を寄せていた犬たちはみんな保護施設にいた(もしくはホアンの時のように誰かが保護して直接ドッグマンに預けた)わけで、社会から外れてしまった少数者、個性のバラバラな個々のひとつの「群れ」、みたいなあり方も重なるように思う。

 このコミュニティにおける愛情の形、みたいなものも美しいなと思った。
 ダグラスが明確に触れた愛には二種類があって、ひとつはサルマに対する恋、もうひとつは犬たちやドラァグクイーンのコミュニティにおける共存だ、みたいな言い方もできそうな気がする。その上で、サルマに対する愛はダグラスを明らかに変化させたけれど、代わりに深い傷も残していったし、あの終わり方を見る限りサルマとダグラスは決して互いを深く理解しなかったと思う。そもそもが演劇の舞台という虚構を介しての関係性だからというのもあるのかもしれないけれど、ダグラスはサルマを「病的に(だったか狂おしいほどとかだったか表現忘れたけど、とにかくそういった過剰性をもって盲目的に)」愛していたし、サルマがダグラスに向けていた感情は「哀れみ」だったのだとダグラス自身が解釈している。そういえば犬小屋に入れられた時に兄が「お前に与えられるのは哀れみだけだ」みたいなことを言っていたような気もするので、もしかするとその言葉が呪詛のように残った結果としてのそういう理解なのかもしれない。
 一方で、コミュニティにおいてダグラスは変化していない。元からある能力をコミュニティのために開放したというのはあるかも、という程度だ。けれど、このコミュニティにおいて、ダグラスは他者と互いに一定の理解を持って接している。手を貸したり貸されたり、笑いあったりして、何となくいっしょにいる。身体障害を抱え、精神的にも傷や歪みを抱えているダグラスが「そのままの状態でそこにいる」ことをコミュニティ側が受容している、みたいな言い方でもいいのかもしれない。これが犬たちのコミュニティになるとさらに相互理解の深度が増し、アイコンタクトで通じ合うようなところにまで達する。それでも彼らは群れであり、その頭はダグラスであるから、犬たちが勝手に暴走してダグラスが困る、みたいな展開にもならない。見ようによっては「そんな訓練された犬いるわけないだろう」という感想にもなってしまうのかもしれないけれど、私はこういう関係性は美しくて好きだ。

 自分の器の小ささを露呈する話になるが、ドラマや映画で「早とちりをする人」の描写が出てくると割と耐えられない。「ええっ!? ってことはあのカクテルに毒が!? わっ、私、止めてきます!!」「いや待て! おい! まだそうと決まったわけじゃ――」「任せてください、足だけは速いんです!!」「違う! 話を聞け――!」みたいになって話も聞かずに飛び出してドデカハプニングを起こしておいてしょげる、みたいな展開とか本当に見ていられなくて目を背けるみたいなこともしばしばある。とにかく、「話を聞かない/話を聞いても理解できない/聞いて理解できても自分の考えが正しいと信じ込んでそれを身勝手に振り回す」タイプの人間が本当に苦手だ。ダグラスの父親や兄のように初めからそういう異常な存在になるように描かれているなら分かるのだけど、普通のキャラクターでそれをやられると心底しんどい。
 逆に言うと、「話を聞く/聞かなくても理解できている/聞いて理解した上で自分の信念には反するということを説明できる」という要素は大歓迎なわけで、そういう意味でこの映画はものすごくストレスが少なかった。ダグラスとエヴリンは極めて冷静に互いの話を聞くし、意見も遠慮しないし、かといって決して相手を頭ごなしに否定したりはしない。ドラァグクイーンたちも無暗に踏み込むような描写はなく理性的な距離感で接している。犬たちはダグラスを信頼しているし、その意図や意思を汲んで動く。これらは現実味に欠けると評価されてもおかしくはないほどに理想的な関係性で、まあ言ってしまえば私も誰かもしくはなにかとそういう関係になりたいわな、という印象だ。
 そもそも恋愛感情というものがよく分かっていないという大問題もあるので、サルマとの関係性に関する評価は少々不当なものになっているかもしれないけれど、それはそれとしてダグラスとドラァグクイーンたち、そして犬たちの関係は実に理想的で美しくて羨ましいなと思う次第だ。

⑤ラストシーンで感じた「うれしさ」と、人間が透き通る瞬間

 なんかね。うれしかったんですよ(小並感)。
 犬たちの助けを借りて留置所を抜け出したダグラスが自らの足で立ち上がり、朝の光の中に浮かび上がった教会の十字を目指して一歩ずつ歩く。ダグラスを照らす朝の光は明るく、エディット・ピアフの「Non, Je Ne Regrette Rien」も晴れやかで、ダグラスの表情も曇りなく澄み渡っている。あのラストでダグラスの生死は明示されていないけれど、私は「神様に連れていってもらえたんだな」と思ったし、犬たちは看取りに来たのだと理解した。その理解込みで嬉しかった。

 あのシーンの「うれしさ」には多分二つの要素が絡んでいるんだと思う。ひとつは人間が透き通る瞬間が描かれていたから。もうひとつは、これは結構大袈裟な言い方になってしまうけれど、より実存的な意味合いで私自身が救われたからだと思う。

 結構序盤の方で「魔法少女が変身しただけで泣く」みたいな話をしたけれど、それと似たようなところで「大軍勢が雄叫びを上げながら衝突するだけで泣く」とかもある。ああいう瞬間って人間が透き通る感じがするのだ。何を言っているのか分からないと思うけど、今のところ一番近い表現が「人間が透き通る」だと思う。劇中で言うと、初めて舞台に立って歌った時とか、犬小屋で撃たれて横たわっている時とか、エヴリンに問いかけられて微笑みながらまっすぐに見つめ返している時とかがそれだった。最後のシーンで光の中へ歩いていく時が一番透き通っていたけど、現在時点の(留置所に入ってからの)ダグラスは割とずっと透き通っていたような気がする。そこも込みで美しくて好きだ。
 説明として正確かどうか分からないけれど一旦言語化してみると、基本的に人間は不明瞭なものだと思っている。配慮とか、気遣いとか、もしくは美学とか信念とか色々な内実と言い方があるけれど、生の感情みたいなものは何かに覆い隠されているのがデフォルトだろう。人格の底、思考以前の感覚的な部分はいつも何かの奥にあって外からは見えない。でも、これがまっすぐに開ける瞬間みたいなものがあると思うのだ。思考も、欺瞞も虚飾もなく、ただ透明に澄み切って向こう側の景色まで見通せそうな、そういう状態になる時があると思う。無垢、みたいな言い方でもいい。西田幾多郎が言うところの「純粋意識」の概念を思い出したけど、あれにも近いのかもしれない。何を考えているか分からない、みたいな言い方になるかもしれないけどそれもちょっと違って、多分「感じている、経験している、でもそこに思考というノイズがない」みたいな状態がそれなんじゃないかと思う。美しい景色に見とれる時のように、そこには思考がない。
 いつでもいい、みたいなことをダグラスは言っていたと思うけど、あの時ダグラスは自分自身を神の手に委ねようとしていたのだと思う。「Non, Je Ne Regrette Rien」であることを暗に宣言しながら、自分の行為や犯した罪や受けた苦しみの全てを神に委ねる。祈りに思考は要らない。あの時ダグラスは確かに神と繋がったと思うし、だからこそ死んだんだと思う。透き通っている時の人間は美しいし、こちらの理解が正しければ、あのシーンは透き通った人間が神に通じてその祈りを成就された瞬間を描いていた。よかったね、と思ったのはそういうところだと思う。祈りが通じてよかったね、御許に行くことができてよかったね、という、おめでとう系の「うれしさ」だ。ラストシーンを見ながらにこにこしてしまったのは主にこちらの要因になる。

 もうひとつの意味合いで言うと、前述の書き散らしノートには「どういう感情かと言われると難しいけど、『人間いつかは死ぬしな!』みたいな感覚に近いと思う。どう生きたって最後には神が落とし前をつけてくれるのだと思うと多少何らか気が楽になる」と書いている。大体そういうことだと思う。「そっか! やったあ!」系の嬉しさがこちらにはあって、これが見た後しばらく続いて幸福な気持ちになれた。あまりに幸福な気持ちだったのでホイップクリームもりもりのチョコバナナパンケーキを食べたらカロリーで胃が壊れそうになったが、その体に悪そうな感じも込みでうれしかった。
 人生における引け目というのは結構あって、失敗したとか迷惑かけたとかあの時ああしておけばとか、決して重い罪ではないにしても様々なちっちゃい後悔がある。このうちのいくつかはまあまあフラッシュバックするもので、時々思い出しては「アアアアア!!」ってなる。これは急に語彙力を失ったのではなく、悔しいとか恥ずかしいとか苦しいとかが一緒くたになってぶつかってくるので感覚の表現としては「アアアアア!!」が一番近いという話だ。その申し訳なさや罪悪感はずっと自分に付きまとうもので、元気がある時にはあまり問題ないのだけど、メンタルがやられている時に思い出すと結構悲惨だったりする。他人に迷惑をかけて好き勝手やって、そんなふうに生きてていいんだろうか、この先も迷惑をかけ続けるんだろうか、その迷惑料を自分は償えるんだろうか、とかどうしようもないことをぐるぐる考えたりもする。というか償えるわけない。因果の鎖ってそんなにシンプルにできてない。でも考えてしまう、みたいな時がある。
 しかしながら、ダグラスのラストシーンについて考える。いくつも法を犯し、ひとを死に追いやったダグラスは神の御許に招かれた。勿論人間が作り出した法律に対しての「罪」ではあるけれど、その罪を償うことなく死んだし、或いは被った苦しみの報いも受けることなく死んだ、と言っていいのかもしれない。いずれにせよ人間はいつか死ぬわけだ。迷惑をかけた私も死ぬし、迷惑をかけられた皆さんも死ぬし、その辺の清算は私の意志や思考とは無関係に行われる(か、行われないのでどうしようもない)。死んじゃったらそこでおしまい、というのはいい意味でも悪い意味でもそうで、だとしたら私は、多分自分で思ってるよりもっとやることも考えることも少なくていい。むしろそんなことは考えないで、ただ透明に透き通ってゆければ、この命はもっと楽に生きられる。そう思ったらとても気が楽になった。「そうか、やったあ、私はもっと透き通ってていいんだ、いずれひとは死ねるんだもの!」と思った。
 1万字ほど前に書いた(絶対書きすぎている)「グラン・トリノ」や「ぼくらの」がまさにそうであるように、私は端的に言うと「ひとが死ぬ話」が好きで、且つ「内に抱えた罪や痛み、コンプレックスなどに向き合っていく話」も好きだ。そういう話の主人公は往々にして悲壮な描かれ方をしがちだし、そういうのを見ると切なくて泣くし、その泣く感じも勿論好きだけれど、でも今回の「DOGMAN」はそこを悲しく描かない。そういうものを既に見つめ終えている主人公が淡々とそれらを振り返り、そのまま透き通って光の中へ消えていく。前述の通り、「過去の自分を今のわたしが振り返る」という距離感が繰り返されたあとの、透き通ったダグラスが微笑みとともに両手を広げて死を迎え入れるラストなのだ。「時よ止まれ、お前は美しい」を言語・思考以前の領域にまで持ち込んだようでもある。一歩一歩死に向かって歩んでいくダグラスの光に満たされたような感情がこちらにまで伝わってくるようで、それを見ていて、「うれしい」と思った。なんて希望と祝福に満ちた終わりなんだろう、と思った。
 犬の群れに溶け込んで絆を結び、悲しみと苦しみの中でひたすら日々を生き抜いてきた男が、己の人生を他者に打ちあけて光の中で死んでいく。この映画はそういう話だと思う。

おわりに

 以上、映画「DOGMAN」の感想をつらつらと書いてみた。極めて個人的な感想を書いているので偏りがあるのと、あと一部記憶が曖昧なところもあるので、その辺りの齟齬についてはちょっと勘弁してほしい。本編を見ずにここまで来てしまった皆さんは今すぐ劇場に行こう。あなたの感想を聞かせてください。

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