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いつからJAZZは難しい(と言われる)のか?

 思いのほか先日の記事に反響があり、驚いています(といっても、無名の素人レベルの反響ですが・・・)。大変恐縮しております。ありがとうございます。

 さて、先日の記事は、自分にとっては結構大事な内容だった。こうして公開しているのは文章力向上のプレッシャのためだが、内容は自分に向けている。そういう意味でも、noteをしていなくても書いていただろうと思う。言語化することで、情報の多くは削ぎ落とされるが、それでも意味はあるな、と考える。

 せっかくなので、関連することを一つ掘り下げて考えてみたい。

 どうして、JAZZは難しいと思われているのか?

 当然ながら、私が生まれた時から、この感想があったことだろう。しかし、おそらく、世界で初めてJAZZと名付けられた時に、この感想があっただろうか?

 まず、JAZZの始まりは、必ず「演奏者」から始まった。これは当然だ。演奏者たちは、「これが良い!」と喜んでいたはずだ。そうでなければ公開しなかっただろう。公開先が身内だけであっても、である。となると、この段階ではまだ、難しいという感想が出てきたとは思えない。

 では、次は? 

 そう、「聴衆」である。すべてのレッテルは聴衆から始まった、と言ったのは、かのアリストテレスではなく、私です。最も、個人がどう感じるかは自由だ。その中に「難しい」があっても全然構わないだろう。難しいという感想を持つことも、私だってある。でも、それが重要だとは全然思っていない。

 皿洗いをしたとする。自分ではよく洗えたな、と自己評価を下して、それを奥様(旦那様)に見せてみる。奥様(旦那様)は皿の隅を見て、「油がまだついてるよ」とおっしゃる。どうして気が付かなかったのか、と奥様(旦那様)に問いただされる。それはつまり、「どこ(何)をみているか」の差である。私の視界には、汚れはなかった。しかし冷静な目で見ると、また違う視点が用意される。この場合、演奏者と聴衆は、入れ替わりが起こることを留意しなければならない。

 ここまでが、聴衆と演奏者の健全な関係である。実際は、直接感想を言う場はないだろう。それならば、自分の心にしまっておけば良い。せめて友人たちと共有するくらいなら許せる。

 さて、ここからが問題だ。聴衆の中には、「自分の意見を誰かに言いたい」「意見を聞かれたから素直に(特には大袈裟に)答える」という人がいるのだ。しかも大多数いるのだ。その中の何人かが、「JAZZという音楽は難しくてわからないね」と言ったのだ。これはおそらく間違いない(本当か??)。そしてその聴衆の中には、「評論家」という、自ら進んで意見を言ってそれをビジネスにしている人たちもいるのだ!

 私の定義する評論家は、「とにかく良いところを探す仕事」である。それはつまり、「愛」がないと成り立たない。ジャンル、演奏者、関わる人たち、サブカル的な広がり、設備、楽器、店、スタッフ・・・とにかくすべてのものへの愛がなければいけない。時には批判も必要かもしれない。でも、良いところも抽出しなければならないと思う。愛がある批判は、極めて高度だと思う。でも、だからこそ、ビジネスとして成り立つ

 しかし、「これはわからない」で終わらせるのは、評論ではなく単なる感想だ。それは、素人でもできる。ビジネスとして成り立たない。世の中にはここを混同している人が多い印象だ。「私にはわかるが、他の人はわからないだろう」なんてものが評論だと信じている人がいないことを願いたい。せめて、「私にはわからなかった、悔しい!」くらいのことを言ってもらいたいものだ。一定数の人にわかるようなガイドをするのが評論である。
 登山家が、「私には行けるが、君には無理だ」というルートを選択するガイドに命を預けるだろうか? 全員が行ける道を用意するのがガイドである。

 このエセ評論家が、自分の意見の正当性を主張するために、「JAZZは難しい」と言ったに違いないのだ。理解できないことを「JAZZのせいにした」のである。

 さらに、JAZZの理解者にだって、こう言う人もいるだろう。「わかりやすくしたものはJAZZじゃないよ」

 ほーら、こうして、JAZZをどんどん先に押し進めて色々な人たちに聞いて欲しい人たち、愛を持って行動している人たちの足を平気で(時には無自覚に)引っ張るのだ。
 まるで、背中を預けた仲間に切られた気持ちである。小早川秀秋ではないか。ちなみに小早川秀秋は、呪いにかかって死ぬのだ(諸説あります)。

 昔ながらのJAZZをやりたい(聞きたい)人は、勝手にやって(聞いて)いる。そう言う人もいる。でも、違うことを試したい人もいる。そしてその人(演奏者や聴衆)たちが、お互いのことを嫌悪しているというわけではないだろう。どちらかと言えばこっちが好き。今はこっちの気分。そんなものじゃないだろうか。

 一般的には、情報というのは、削ぎ落とされ、キャッチィなものだけが残される。したがって、「JAZZは難しい」という言葉が一人歩きしたのである。さらに言えば、正確には「JAZZは(私にとっては)難しい」という言葉だったのだ。

 もっと言えば、すでにJAZZを好きな人よりも、そうでない人の方がはるかに多い。ビジネスを考えれば、そちらにベクトルを向けることは間違っていないのである。だから、ものすごく過激に、大胆に、問題なのを承知で換言すれば、「エセ評論家は、ジャンルの衰退を願っている」と言えてしまうのだ。

 これを、JAZZ以外の言葉に置き換えても、一般性が成立するだろう。例えば、職場のDX、歌舞伎、クラシック音楽、絵画、キャンプ、サッカー観戦、ゲーム、SF、ミステリィ、電子書籍、自動車、スイーツ・・・。
 演奏者は、設計者、企画者、演者などとなり、聴衆は、読者、観衆、ユーザとなるわけだ。
 ほらほら、たくさんあるでしょう? いずれも、衰退について思い当たるところがありませんか??

 私がBRUTUSのJAZZ特集を買ったのは、その専門性もあるが、その前提条件として、「愛情に溢れていたから」だ。
 子供が遊んでいる時のキラキラした笑顔を見ることほど、幸福なことはない。そのキラキラを、この雑誌から感じたのである。あの記事を書いた人たちは、おそらく、キラキラした顔をしていたのではないだろうか。もしもそうなら、それは本当に素晴らしく、尊いことだ。

 そんなことを、Madonnaの1stアルバム「Madonna」を聴きながら書いてみた(JAZZは??)。 

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