見出し画像

ep5 十津川村

 ロングトレイルの舞台、十津川村について書き残します。奈良県吉野郡十津川村は奈良県最南端にある自治体で、その面積はなんと672平方キロメートル。日本一広い村で有名ですが、北方領土が返還されると5番目に広い村となるそうです。奈良県は3,690平方キロメートルなので、奈良の約5分の1は十津川村という事になります。因みに東京23区の面積は623平方キロメートルと、十津川村が若干広いです。現在の住民は2890人(2023年11月現在) ダム建設時の1960年には約11000人の人が住んでおり、私が幼少期の頃は6000人程の住民がいました。その後人口減少に歯止めがかからず現在に至る過疎地の村です。

 歴史

 十津川村の歴史は深く古代は神武天皇の東征(神話)から始まります。道案内をした八咫烏が当時の住民だったとか。南北朝時代なども十津川村は度々歴史の舞台に登場します。歴史的な要人が逃げ込んで来る場所でもあり、身を隠す場所としては最適であっただろうと思います。そしてその様な人を匿い、中央と内通する人物がいたのでしょう。また古くから天領地とされ租免の地でもありました。今十津川村が免税の地とされると一気に人が流れ込んで来て溢れかえるでしょう。歴史に疎い私ですが、幕末の時代に興味があって、いろんな本を読んだ思い出があります。その頃十津川村は十津川郷と呼ばれていて、勤王の地であり武人も多く、京都御所の護衛などで重宝されていたようです。元々十津川村は6個の村で形成されていました。今の十津川村になったのは1890年(明治23年)とそう古いものではありません。

林業そしてダム建設

 十津川村には豊富な森林資源があり、木炭などを作っていた炭窯が今も遺構として点在します。特に戦後の建築ラッシュに木材は大きな需要がありました。山で切った木を川で筏(いかだ)にし、下流に流せば木は飛ぶように売れたそうです。更に1949年(昭和34年)十津川村の主幹道路国道168号線が全て開通し、より多くの木材が外に出て行きました。当時、木材を運ぶトラック運転手の話によると十津川温泉から橿原市曲川貯木場まで地道を8時間かけて走ったそうです。寝る間もなく働いたそうな。昭和30年代の十津川村はすこぶる景気が良く、多くの財を作った人もいました。この頃の様子はお年寄りの方からよく伺います。皆さん『活気があって良かった』と口を揃えて話を聞かせてくれます。筏を勢い良く流す鉄炮堰と言うダムを作る際は水が漏れない様に利用する苔さえもお金になったそうです。

 林業も盛んでしたが、一方で十津川村に水力発電用のダムが建設されるようになりました。ダム建設時には人口がピークを迎え、サービス業も良く流行ったと聞きます。現在は静まり返っていますが、当時の夜は飲み屋があちこちにあって、毎晩喧嘩があったりと賑やかだったそうです。1960年(昭和35年)風屋ダムが完成し、その2年後に二津野ダムが完成しました。完成と同時に人口は減少へと転じました。更に国産よりも安い外材が輸入されるようになってからは林業も衰退します。人口減少は経済活動を鈍化させ、追い討ちをかけるように人口減少に拍車がかかり、現在に至りました。

二津野ダムが完成した当初(十津川温泉)

十津川村の今、そして将来

 過疎地となった現在、限界集落も多く見られ衰退の一途を辿る十津川村ですが、良く言えば自然を取り戻しつつあるとも言えます。小学校は2校、中学、高校は各1校。少子高齢化は顕著です。観光資源としては温泉があり、吊り橋や世界遺産に登録された熊野参詣道小辺路や熊野三山奥の院として鎮座する玉置神社が人気です。
 過去の例から考察するに、自然の資源に需要があると活気の出る村です。資源を外に出すだけではなく利用する良い方法があればと色々策を練っている様ですが前途多難なようです。今何が求められているのか、どこに需要があるのか本気で模索し、思い切った策を打たなければ十津川村の存続は危ういのかも知れません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?