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全てを「お手伝い」にしてくれるな

私はさ、やってみたかったから「やりたい」って言ったんだよ。

僕はさ、おもしろそうだから「やってみたい!」って言ったんだよ。

それなのに…そんな気持ちだったのに…

「お手伝いありがとうね」…って、野暮なこと言うんじゃないよ!!
何でもかんでも勝手に「お手伝い」にしてくれるなよ!!!!


(↑ 言いたいことはほぼ言えている)

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今夏、タビノネ学童で流しそうめんをした時の話。

子どもたちがそうめんを堪能した後、こっそり開かれていた大人だけの流しそうめん。さっきは箸で必死に掴む側だった3年生と1年生が怪しい動きの大人を察知して「私が流したい!」「私も!!」と参加。今まで大人がやっていた水の調整とそうめんをザルからせっせと流す役をかってでてくれた。その眼差したるや真剣で、みるみるうちに手際が良くなり、分量もタイミングも受け手に配慮できる安定感抜群の「流し屋」になっていた。

無事に大人もたくさん器にそうめんが盛れた後、

私はついつい「お手伝いありがとー!!!」と言いそうになった。

しかし、咄嗟に喉元でそれを阻止した。

なぜか。
大人の流しそうめんのそうめんを流してくれたのだから、
「お手伝いありがとー!!!」と言っても不思議な場面ではなかった。
だけれど、その子たちの「やってみたい」の動機の中に、大人に褒めて欲しい、見てほしい、というものが限りなく少なく、面白そう!挑戦してみたい!が大半を占めていたのではないかと思えたのだ。こちらがお手伝いとしてお願いしたわけでもないし。

もしこんな動機だったらその行為を勝手に「お手伝い」にまとめてしまうのは勿体無い…

その日は、代わりに、

「いやー、なんだかどんどん流すの上達したね?ありがとね!」

とだけ「流し屋」さんたちにお礼を言った。


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〈お手伝い補足〉

「この机、拭くの手伝ってくれるひとー?」
こんなお手伝いの呼びかけに「やるー!」と言ってくれる子たちがいる。
なんと尊い、なんとありがたい。

そのやりとり自体が気持ちがいい気もする。
子どもたちの暮らしの中の役割が生まれる。
自分が誰かのためになったという自己効用感が育まれる機会にもなる。
誰かに見てもらいたい!認めてもらえて嬉しいなーという気持ちになることもあるだろう。
または、大人が「助けてくれー!手伝ってー!」と率先して言うことで、他の人を頼るハードルを下げる効果も期待できるかもしれない。

そして、その後には「お手伝いありがとうね、助かったよ」そんな言葉もセットになる。

手伝いをお願いをする、頼まれてくれる、ありがとう助かったよ…この一連は人間にとって大事な営みに間違いない。最初の話は、その上で!って話だ。


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