見出し画像

豆腐屋のおっちゃん

「んー、学校の先生になるのかな?
 いや、なれないか…
 というか、本当になりたいのか…?」

モヤモヤぐるぐる考えていた12年前。
私、大学生のころ。

母校の都立高校で行った教育実習。

「うぅ、この現場で頑張り続ける自信がない…!」

少し触れただけにも関わらず
わかった風に一旦決着をつけた私。

ただ、子どもが子どもとして大事にされて
子どもとして認められる社会で生きていきたい、
という思いに変わりありませんでした。

徐々に「学校以外の場所や人」に目がいくようになりました。

多くの子どもたちが一番長い時間いる学校。
その学校が先頭切って子どもたちの権利を保障していけたらいいのだけど、
なかなかそう簡単にはいかないし、あと、学校の先生だけに任せるのもおかしいか

もしかしたら遠回りかもしれないけれど、
地域の大人たちの眼差しや活動によって
子どもが(先生たちも)大切にされる社会に近づくのでは…。

右も左もわからない私でしたが、
学校現場という選択肢を無くしたことで
よりそう思えてきたのでした。

「あ、そういえば地域に見守られ育ったんだ、オレ」

自分の子ども時代を思い返すと、
校庭開放のためにグラウンドの見守りにきてくれていたおばちゃん、
遊びに寛容でいてくれた見知らぬおっちゃん、
公園で一緒にサッカーしてくれた若い地域の兄さんたち、
あの顔やこの顔が思い出せるのです。

そういう目で昔を見渡すと、
それまではあまりにも日常の光景だったため
気づけていなかった存在がありました。

それが「豆腐屋のおっちゃん」。

豆腐屋のおっちゃんは
長い相棒であろう自転車をゆっくり力強くこぎます。
荷台には豆腐を入れる木の箱が固定されています。

夕飯の準備時。
ラッパを鳴らしながら街をいきます。
それぞれの玄関先に出ているタッパーを確認して
「ガッシャン」と重そうなスタンドを立てます。

公園で遊ぶ小学生の僕たちはおっちゃんの音が聞こえると
遊びを中断しておっちゃんの元に集まります。

「おー、こうちゃん!今日もやる?」

ポケットからじゃらっと10円玉を出して
赤い親指と人差し指で1枚を挟み、ころっと両手のひらに転がします。
上手に隠されている手の右か左かを当てるのは、僕。

当たれば「やったー!」「もう一回!」

外れれば「くそー!」「もう一回!」

当てると10円が貰えるとか、
僕らに豆腐を売るとか、
そんなのは全くなく、
ただただ遊ぶ時間。

今でもたまにやる葉笛を教わったのも
豆腐屋のおっちゃんでした。


あの時代、もしかしたらもっとずっと前から。
阿佐ヶ谷北で少年時代を過ごした人のなかには
街で豆腐屋のおっちゃんを見つけると嬉しくて駆けていったり、
おっちゃんの音を聞くと家から飛び出したりしたひとが、きっと、間違いなく、僕だけではないはず。

あんな大人が地域に溢れたらどうだろう。

私は豆腐屋のおっちゃんにはなれないけれど、
豆腐屋のおっちゃんのようなおっちゃんになりたいと
かなり真剣に思っている。

あの時の豆腐屋のおっちゃんの優しさが
32歳になった私にも確実に残っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?