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劣あっての優

これまで12本の記事を公開してきました。
物事は同じなのに、それの見方、それを「見る角度」というのは、実にいろいろあるもんだなぁ、と常々感心しておりまして、読者の皆さんといくつかのトピックスを共有してもらえたらいいな、と思って書いてきました。
決して「この考え方が正しいのだ」などというつもりはありません。
「こういう見方もあるんだなぁ」くらいの軽い感覚で読み楽しんでくださると幸いです。

以前に、「勝利そのもの」の値打ちと「対等な会話」について書きました。
今回は、優劣です。

優という字は、「優(すぐ)れている」とも「優(やさ)しい」とも読みますよね。
語源がどうだとかは全く知りませんが、日本語というヤツは時々こうしたヒットを飛ばします。
たとえば、「背が高い」ことは、それだけでは優でも劣でもありません。
もし「背の低い」人が高い場所に手が届かないときに、「背が高い」人が代行してあげたとしたら、その時に初めて、「背が高い」という性質が「優」となります。
「体力があって時間もある人」が、「体力のない人(病人や高齢者など)」や「忙しくて時間がない人」の代わりに荷物運びをしてあげれば、「体力がある」ことや「時間がある」ことが「優」たる地位を獲得します。
「専門的な知識を持っている人」が、「その専門知識を必要としている人」に対して有益なアドバイスをしてあげることも、仮に全員がその知識を持っていれば貢献できませんから、「知らない」という「劣」あっての「優」たる地位であることが分かります。
これらは、「劣あっての優」「劣を補う(支える)優」であることを端的に示しているともいえますね。

また、ご経験のある方は共感して頂けると思いますが、「支えた方」、「貢献した方」も喜びの心持ちに満ちあふれることがありますね。
もちろん「貢献された側」は感謝します。
「優れている方」が「劣っている方」に対して、見下したり、偉そうに振る舞ったりするのは、どうもおかしいな、と思えてきます。

人間社会は、いうまでもなく、一人一人の人間は異なっていて同じではありません。
年齢、経験、体力、知識など、たくさんの指標が複雑に入り組んでいて、それらに社会制度や慣習などの違いが加わって、まさに千差万別の個人がこの時代で同時に生活しています。
多様性はデフォルト(もともと初期設定されている状態)なのです。

人間社会は、「劣を補う(支える)優」という関係性がたくさん成立していて、貨幣経済の下に労働貢献を交換するという仕組みを作り上げています。
「貢献に対する正当な報酬として貨幣(お金)が提供される」ことが正常であり正当な姿です。
騙したり、脅したり、ルール違反をしたり、といった「貢献なき集金」は、犯罪である以前に、本来恥ずべき行為です。

「貢献なき集金」には、部分的なものもあります。
たとえば、「国産のウナギ」と表示された商品が実は「輸入ウナギ」であったというケースは、「ウナギ」であることは正当な行為ですが、「国産」と偽っている部分は「部分的に貢献なき集金」です。
国産ウナギを購入する人が約2倍の金額を支払っているのは「国産である」「輸入でない」という部分に対して支払っているのですから、この点については「貢献なき集金」といえます。

こうして考えてみると、社会活動の中には「貢献なき集金」が横行しているように思えます。
「ちょっとだけ・貢献なき集金」とでもいっておきましょうか。
「虚飾」も「貢献なき集金」の温床になり得ます。
「こんなに良い商品なんですよ」と営業さんが売り込むためのセールストークの必要性は認めます。
しかし、虚飾と表裏一体であることは自覚する必要があるでしょう。
何しろ、相手方は何も知らない「信頼するしかない」「情報弱者」なのですから。
「劣」たる相手方に貢献するべきところを、逆に、「情報がない」こと、「情報を理解できない」こと、「信頼するしかない」ことをいいことに、虚飾などによって自分たちに都合のよい方向に誘導するのは、「優」たる立場を悪用した「部分的な貢献なき集金」「ちょっとだけ・貢献なき集金」といえるでしょう。
では、どうすればよいか。
まずは、「劣あっての優」という考え方から、相手の立場に立ってみることでしょう。

貢献する側からみれば、「優(やさ)しくなるには、優(すぐ)れている必要がある」ということでしょう。
デフォルトである多様性を受け入れるとすれば、「互いに多様性を尊重し合える関係性」「貢献によって他者を支える関係性」は、他者の役に立って感謝され、それを生きがいとして、いきいき生きることにもつながってくるように思えます。
貢献する側が生きがいを持てるのは、「補わせてもらっている」ゆえのことかもしれません。(*^_^*)

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