結局のところ創価学会は宗教ではない。

これまで創価学会の事を書いたが、宗門から破門され、故池田大作のいう事為す事矛盾点が多い「人間革命」なる学会員がキリスト教で言う「聖書」的なモノをつらつらと書き連ね。11月には徹頭徹尾「財務」という半ば強制的な献金。創価学会に身を置いていた時期に見て聴いたブラックな事は枚挙に暇がない。「仏法は勝負」と謳い文句のように言うが仏の道に行く者はそんな攻撃的な事はしない。宗教と言うのは己と向き合い己の真の人生の設計図を造りその助けとして神仏に救い給う事であり、その神仏に対する信仰を通じて「勝負する相手は詰る所自分自身であり、自分自身に賭ける事」飽く迄神仏は人生のアシスト(心の励み拠り所)に過ぎない。また「変毒為薬」と言う言葉を多用するが正しくは「越えなくてはならない壁を己が自身で自分をぶつけその壁を壊し苦難を乗り越える事」ではないだろうか?
この11月に行われている「財務」については新約聖書のマタイによる福音書6章19節に
「あなた方は地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さびが付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は天に積みなさい。そこでは、虫を食う事も、さび付く事も無く、また、盗人が忍び込むこともない。あなたの富のあるところに、、あなたの心もあるのだ」
学会が現在行っている事は同じく新約聖書の「マタイによる福音書」に戒めとして記されている。殊に5章6章7章に記されるがスペースの問題から割愛する。サラリと書くと学会の言う「福運」と言うのは第5章の山上の説教に当て嵌まる。
自分は創価学会を脱しキリスト教に帰依したのは創価学会には神も仏も無くバビロン化されている。神の存在を信じている自分は今も尚学会員時代の「茨の道」を通り過ぎ、それに伴った心の傷を受けている。自分にとっての信仰の戦いは他の神仏を信仰する異邦人(他宗・他教を信仰する人)を「邪」「邪宗」「邪教」と蹂躙する者に「神の怒りの杯が満る前」に咎め、気づきを述べ伝えることが自分の信仰の戦いだと思う。
私自身決して正しい者でなく小さな実の種に過ぎない者です。地の塩、世の光になる為に。
創価学会や日蓮正宗の掲げる「広宣流布」に関しては新約聖書の「フィリピの信徒への手紙」第2章5節以降に記すように
「互いにこのことを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と公に宣べて父である神をたたえるのです。                               
                      2023年11月21日
                       坂本豆廼丞記

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