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【映画評】ニア・ダコスタ監督『マーベルズ』(The Marvels, 2023)

 広大な宇宙を一人漂うキャプテン・マーベルの絶対的孤独——ぜひIMAX3Dで冒頭の宇宙遊泳シーンを堪能してほしい。他の二人のヒロインの登場とその二人との交流は確かにキャプテンの孤独を癒すが、それは彼女の能力の相対化をも促してしまう。かくて「女たち」は一旦「交換(exchange)」可能な客体の位置に貶められ、だが相互の「もつれ(entanglement)」を手掛りにそのような状況から脱出する。
 そもそもスーパー・ヒロインには誰でもなれる訳じゃない。しかし、ひとたび超能力を得た限りは、彼女らにはそれぞれ果たすべき役割が生じて、そのために各人独自の能力を然るべき時に然るべき場所で——他のヒロインや碌でなしヒーローとの兼ね合いをも考えながら相互に——適宜、発揮しなければならない。いやはや、なかなか面倒くさい。
 そのような一筋縄ではいかない「もつれ」を手助けするのがキャプテン・マーベルの「伴侶種(companion species)」としての猫(グース)/フラーケンだ。「猫の手」ならぬ彼奴らの「触手」は、端的に――ラブクラフトの人種差別的なそれとは異なるダナ・ハラウェイの――「クトゥルー新世」の到来を期待させる。「子」ではなく「類縁関係(kin)」を! と。まあ、あれらはグースの子どもたちではあるようだけれど。
 マーベル映画史上最悪と一部では見做されている本作——確かに敵役の魅力に欠けたし矛盾もあるし遊びすぎなところもある――だが、マッチョ男たちの意地の張り合いを延々と見せ続けられるより、女たちの身体や存在が無前提に肯定される世界の可能性を追求する方がずっといいではないか。
 それにしても、ディズニー風ミュージカルを見せるためだけに召喚されたパク・ソジュン王子のところの星の水は大丈夫なのだろうか(彼がマッチョじゃないのはとてもいいのだが、その分とても心配)。


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