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【覚書】ジャン・ドゥーシェによるクロード・シャブロル追悼(2010)

「シャブロルは卑俗を優雅に撮った」『Mediapart』(2010年9月12日)

 フランス映画にとってのシャブロルは、ドイツにおけるファスビンダー、イタリアにおけるフェリーニ、スペインにおけるアルモドヴァル、そしてイギリスにおける(イギリス時代の)ヒッチコックに相当する。彼は彼ら同様、自分の国の卑俗さに関心を抱き、それを美しく魅力的に撮った。
 (TVと映画を往還したが故にシャブロルを「大監督」の資質に欠けるとする向きをドゥーシェは否定する。)
 シャブロルはその点に関しヒッチコックを模倣した。ふざけている様で、彼はその実、堅実な人間だった。登場人物が画面を左から右へ動くとき、そこには必ず理由があり、所要時間すら決まっていた。シャブロルのかかる演出志向は、完全芸術としての映画を目指したゴダールとの間に齟齬を来たす。シャブロルは、何よりもまず、目に見えるもの、読み取れるものをもって芸術を語ろうとしたのだ。

クロード・シャブロル追悼式での演説(於シネマテーク・フランセーズ)

 C・シャブロルは緻密な「ショット」によって作劇を行った偉大な作家だ。その点で確かにF・ラングと比較し得る。だが、ラングがショット構成で意志と意志とのぶつかり合いを表現したのとは異なり、シャブロルは一つのショット内で登場人物たちが「往来・移動」する様を捉えた。同一画面上を右往左往する登場人物たちの思考も又それぞれに循環し始める。彼らは自らの居場所を探しているが故に、或いは常に自分にないものを求めているが故に動き続ける。己の居場所や欲するものが目の前にないのであれば、彼らはどうすればいいのか。ここに独・仏表現主義の幻想趣味が接木される。
 (ドゥーシェはシャブロルを「非常に偉大なシネアスト」と評し、評価の低かった彼の晩年の作品に対する見直しを迫る。2人が60年来の盟友同士であったことはいう迄もないが、ここでドゥーシェが「一批評家として」親友の映画を正当に評価しようとしている所に心を打たれる。)

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