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【映画評】クリント・イーストウッド監督『運び屋』(The Mule, 2018)

 人生最後にして最大の荷物は―何百キロに達するコカインではなく—娘と妻のもとへ届け(帰り)損ね続けてきた自分自身であった。そのことに、このアメリカ中を旅してきたはずの男は、最愛の人物の死を目前にしてようやく気付くのである。かくて騾馬=頑固者(the mule)は、ハイウェイの途中でハンドルを切り、ブレーキを踏む。
 己の許されざる過去(来し方)を引き受けつつ、しかし死(来世=ヒアアフター)への欲望は持たずに何度でも行き/帰る(生き返る)老人。諦念ではなく、何ごとかを置き去りにした後悔を抱えながら、銀幕上の「いま」をドライヴし続ける騾馬、いや俳優/監督イーストウッド。今作における彼(イーストウッド/アール=タタ)は、言ってみればドライヴィング・デッドなのではあるまいか。
 これは実は、『グリーンブック』(2018)とほぼ同じ—「白人」ドライヴァーの「行きて返りし」—物語である。ただしイーストウッドは、かつての「他者」ではなく、現在の「自分自身」を運ぶ。過去に逃げず(歴史を修正して「白人」を慰撫することなく)、かといってスパイク・リーのように説教臭くもならず(Do not the right thing!)、そのような、清濁併せ呑む世界にこそ、デイリリー(一日花)は咲き誇る。


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