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【覚書】ジャン=リュック・ゴダール監督『東風』(Le vent d'est, 1969)

 ピーター・ウォーレン(Peter Wollen)の1972年の論文「ゴダールとカウンター・シネマ—東風」(“Godard and Counter Cinema: Vent d'Est”)を読む。当然ながら「カウンター・シネマ」が本論文の鍵概念であるわけだが、ブランドフォードらの『フィルム・スタディーズ事典』の「カウンター・シネマ」の項を見ると、「この用語自体は(中略)ピーター・ウォーレンの造語である」と明言されている(57)。さすれば、ウォーレンに戻るしかあるまい。

 ウォーレンは、ゴダールの『東風』(1969)をして古典的ハリウッド映画に見られる七つの特徴(物語移行性/自己同一性/透明性/物語の単一性/閉鎖性/快楽性/虚構性)を解体した「対抗映画(カウンター・シネマ)」と看做す。しかし『東風』は「革命的映画」それ自体ではなく、その端緒を開いただけだと結論する。
 しかしこのとき、ウォーレンは自らのいう七類型を持っているはずの「ハリウッド映画」について具体例を全く挙げない。またこれに対するゴダール映画の七類型(物語の非移行性/自己解離性/前景性/物語の複合性/間隙性/嫌悪性/現実性)についても、その具体例を『東風』以前の映画から取出してくる。
 無論、彼が『東風』を重視するのは五月革命を踏まえてのことだ。ゴダール映画を「初期」と「ポスト68年」とに分け、前者が上述の問題群をそれぞれ別のレベルで捉えていたのに対し、後者はそれら全てを並列化し、映画が「意味」を生成できるのは他の意味との関連においてのみであることを示したと評価した。
 当論文が書かれたのは1972年で『東風』の公開が1969年である。「対抗」の先行例がゴダールの初期映画から盛んに引かれるのも道理だ。だが、そうなると『東風』一作をメルクマールとして差出す意義は霞む。かつそれを「革命的映画」の完成体とも看做さないというなら「対抗映画」の内実は揺らぐばかりだ。

 ということで、ウォーレンに立ち戻っても「カウンター・シネマ」の何たるかはよく分からなかったというお話でした(すみません)。大分前に読んだときのメモなので誤解しているところもあるかもしれません。そのうちまた読み直してみます。

出典:Peter Wollen, “Godard and Counter Cinema: Vent d’Est”, Afterimage 4  (Autumn 1972): 6-17.

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