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【映画評】ピーター・ファレリー監督『グリーンブック』(Green Book, 2018)

 スパイク・リーが腹を立てるのも分からないではない。本作を見ていると、映画の中の「黒人」は、貧乏であろうが金持ちになろうが、いつになっても「白人」から人間としての「尊厳」を説諭され続けなければならないようだ。つまるところ、依然として「黒人」は、「白人」から認められなければ「人間」になれないのだ。あるいはこれは「白人」が望むかたちで進められる「黒人」との和解の物語、過去の独りよがりな清算譚でしかないのかもしれない。
 フィルモグラフィーを見直すまでもなく、ピーター・ファレリーが社会的弱者に想いを寄せていることは明白だ。ところが、「白人同士」の二人組/三人組の間では成立していたところのものが、「黒人/白人」の二人組においてはそう簡単には成立しない。常にコミュニケーションの土俵それ自体が問われてしまうからだ。しかも、そのような不調は画面外の現実社会の在り様を観客に参照させずにはおかない。
 さてこのところ(2018年現在)、『スリー・ビルボード』(2017)、『ローガン・ラッキー』(2017)等々、貧しい「白人」の「愚かさ」を肯定し慰撫する映画が増えているように見える(彼らはその愚かさゆえに救済されなくてはならない)。あるいは『guifted/ギフテッド』(2017)のような「本当は賢い(どころか天才である)」「白人」の貴種流離譚が。『グリーンブック』は単にそれら映画の列に連なる作品なのか、それともそのようなコンテクストを異化し得る作品なのか。

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