【映画評】Y・ランティモス監督『哀れなるものたち』:(1)変奏の「美女と野獣」
『フランケンシュタイン』のパロディだが…
『哀れなるものたち』(Poor Things, 2023)の最初のパートでは、ロンドンのとある邸宅に生じている奇怪な出来事が、一部を除きモノクロ画面で提示される。それはこのヨルゴス・ランティモスの新作が、『フランケンシュタイン』(1931)や『フランケンシュタインの花嫁』(1935)といった1930年代のユニヴァーサル・ホラーの、いやそれ以前にメアリー・シェリーのゴシック・ロマン『フランケンシュタイン』(Frankenstein: or The Modern Prometheus, 1818)のパロディであることを告げている——それはまたシェリーの「怪物」を「女性」に置き換えて作られたピュグマリオーン神話のパロディとも言えるかも知れない。
当然のことながら、アラスター・グレイの原作小説(Poor Things: Episodes from the Early Life of Archibald McCandless M.D., Scottish Public Health Officer, 1992)が既にゴシック仕立てなのであり、その辺りについては私自身も掘り下げてみたいところだが、既に各所で指摘されていることでもあるし、今は置くとしよう。以下では、それとは少々異なる——しかし重なってもいる——二つの視点からこの映画を振り返ってみたい。
『美女と野獣』のヴァリアントとして…
視点の一つ目は、『哀れなるものたち』を、シェリーらのゴシック小説のさらなる源流に位置するヴィルヌーヴ夫人の『美女と野獣』(1740)の後継作品として見ることができるのではないか、ということである。但し、私たちがよく知る昔話——中世ヨーロッパと思しき世界を舞台とする異類婚姻譚——としての「美女と野獣」は、ほぼ同時代にヴィルヌーヴ夫人版を短縮して子ど向けに改編したボーモン夫人版『美女と野獣』(1756)を元にしたものだ。もっと簡単に言えば、それは、城に閉じ込められたヒロインが、生来の美徳と献身性をもって暴力的な男を懐柔し、優しい夫へと改心・変身させるというお伽話だ。
そもそもブロンテ姉妹の『嵐が丘』(1847)や『ジェーン・エア』(1847)に代表されるヴィクトリア朝下の「女性ゴシック」に特有の「怪物的な他者としての男性が最後には誠実な夫になる」というプロット——要は女性による男性の啓蒙のプロセス——それ自体が、「美女と野獣」譚の変奏なのである(Williams)。
ベルとベラ
『哀れなるもの』のヒロインの「ベラ(Bella)」という名前が、「美女と野獣」の「ベル(Belle)」と同じロマンス語系の「美しい」という形容詞から付けられているのは偶然ではあるまい。「美しき」彼女は、一度目は自分に脳移植手術を施した天才外科医ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)の邸宅に、二度目はドンファン気取りの弁護士ダンカン・ウェダバーン(マーク・ラファロ)に乗せられた豪華客船に、三度目は「元(DV)夫」のアルフィー・ブレシントン将軍(クリストファー・アボット)の邸宅にそれぞれ幽閉され、しかし、いずれの場合も自らの意志でそこを立ち去る。最後には『青い鳥』よろしく、結局は一番まともであった——自らの怪物的男性性をベラとの会話や交流によって相対化できた——婚約者マックス・マッキャンドレス(ラミー・ユセフ)の元に戻って結婚する(集団生活を始める)。
つまりベラは、先輩ベルが野獣との間で一度体験していたに過ぎない、強権的な男性の住まう「城」(のような場所)に囚われてそこから逃げ出すというプロットを、ご丁寧にも三度繰り返した後——後述する様にディズニー・アニメーション版でもそれを二度繰り返す——、最初の「城」に出戻り、「誠実な夫」を獲得するというわけである。
裏返しのディズニー・プリンセス・ストーリー
かかる事情を踏まえるとき、『哀れなるものたち』を配給したのがウォルト・ディズニー・スタジオ傘下のサーチライト・ピクチャーズ——日本ではウォルト・ディズニー・ジャパン——であるという事実は見過ごせない。そう、数ある「美女と野獣」譚の中でも『哀れなるものたち』との照応が際立つのは、最も人口に膾炙しているディズニー・アニメーション版『美女と野獣』(1991)なのである。
周知の通り、この『美女と野獣』は、ディズニーにあって、自立したヒロイン像を提示して旧来の受動的なプリンセス像を刷新したメルク・マール的作品だ。かつての『白雪姫』(1937)や『シンデレラ』(1950)といったプリンセス・ストーリーは、中世風の城や館に住む——実質的には閉じ込められている——ヒロインがその外見と心根の美しさ故に白馬の王子に見染められ、そこから連れ出してもらい結婚するという、ひたすら受け身の物語であった。しかし、91年版『美女と野獣』の町娘ベルは、その名に違わず「美しく」はあるものの、「歩きながら本を読む」シーンに象徴される様に、ディズニー史上初めて、行動的かつ知的探求心に溢れたヒロインとしてスクリーンを文字通り闊歩したのである。
彼女は色男ガストンを一顧だにしないばかりか、従来のディズニー作品とはあべこべに、城に閉じ込められている王子(野獣)を心身共に開放する。ベルは、かくて改めて、自らの意志で、王子と一緒に城に住む(結婚して女王となる)こととなる。それは、他でもないディズニー自身によって裏返されたプリンセス・ストーリーとなった。
書を捨てるな!
こうして私たちは『哀れなるものたち』のベラもまた、行動的でありながら「本好き」なヒロインであることを——シェリーの『フランケンシュタイン』の「怪物」がそうであったのとは少々異なるコンテクストから——再認識するに至る(上図参照)。確かに、ベラの、色男ダンカンとの激しい性交は、ディズニー配給作品のヒロインには相応しからぬ行状と思われる向きもあるかも知れない。しかし実際には、このダンカンと91年版『美女と野獣』のガストンの役どころはほとんど同じである。
あのガストンは、明らかにジャン・コクトー監督版『美女と野獣』(1946)の色男アヴナンからヒントを得てかたち作られたキャラクターである——もちろん「二つの原作」には彼の様なキャラクターは存在しない。彼はベルに結婚を申し込み、それを拒絶されるや否や、彼女を力づくで自分のものにしようとする。これは野獣がベルの真心に触れて改心するのと表裏一体の出来事であり、ということは、当作における真の野獣はガストンだったのである。
ダンカン・ウェダバーンは、結局のところ、『哀れなるものたち』におけるガストンなのだ。それは両者イメージの相同性(上図参照)によっても明らかだろう——いやベルだって、一歩道を違えていたらベラの様にさらに自由に生きられたかも知れない。しかも、興味深いことには、このドンファン気取りの横暴な男二人、ダンカン/ガストンは、共に書物を粗末に扱ったことを契機として——つまり女性の知的探求心を否定したことで——ベラ/ベルに愛想をつかされるのである。
城を出よう!
今や、ディズニー・アニメーション版『美女と野獣』がそうであったように、ウォルト・ディズニー・スタジオ傘下の会社が配給する『哀れなるものたち』をもまた、ディズニー的「白馬の王子」譚に対して内部から投げかけられたアンチテーゼとして読むことができる。「(男たちの統べる)城を出よう! しかし、書は捨てるな! 」。これが『哀れなるものたち』が女性に対して放つメッセージだ。アップロードされた現代版「美女と野獣」たる本作はだから、確かに、父権的な社会を換骨脱退するに充分な批評的視座を、私たちにもたらしてくれたに違いないのである。
ところが、である。私は、この『哀れなるものたち』をどうしても評価できなかった。上記のような既存の社会に対する「転覆」あるいは「脱臼」の契機を、本作は肝心なところで逸してしまった。それが私の見解である。その辺りについて詳しく説明するためには、ヨルゴス・ランティモスという監督の「動物観」について見なければならない(②へ続く)。
〈引用文献〉Anne Williams, Art of Darkness: A Poetics of Gothic. Chicago and London: The University of Chicago Press, 1995 (Kindle).
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