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安土桃山時代と徳川家康の生い立ちと江戸幕府

はじめに

 江戸幕府はとてもシステマティックである。身分を厳格に決めて、各々の行動範囲を制限し、ともかくも世の中が安定するようなシステムを作り上げた。それ故に江戸幕府は260年続いたのであろう。
 養老孟司氏は「日本人の身体観」の中で、江戸時代を制度という精神性でがんじがらめにした脳化社会であったと定義した。では、そのような脳化社会はどういった文脈を踏んで形成されていったのであろうか。

第一章 安土桃山時代の文化

 戦国時代とは一言でいえば、「死」と「暴力」の時代である。すなわち戦国時代は各地で規模の大小はあれど多くの戦が勃興しており、常に死と隣り合わせであった。死を避けるためには暴力によって生き残らなければならない。それ故に、身体性というものが強く意識された時代である。身体性とは一方で非常に動物的である。いわば野性的な生きざまが求められていたことは間違いない。
 そういった戦国時代を潜り抜けた安土桃山時代においては無数にあった境目論争をもとにした戦が減少するとともに、人々の意識から「死」と「暴力」がおのずと薄れていった。そういった中で安土桃山時代に求められたことは乱世の否定である。これは言い換えれば動物性からの脱却である。それ故に人間に内在する動物性の否定という動きがあったのではないかと考える。
 具体的には動物も人間と等しく尊重するべきという仏教から、人間を動物よりも優位に置くキリスト教への信心の変遷である。仏教からキリスト教へと関心が移ろいだ背景にはもちろん政治的な事柄が多分に絡んでいることは間違いないが、動物性の否定ということも一つ絡んでいることは十分に考えられる。
 さらに身体から脳みそに意識が移ったということを考えれば、その圧倒的な教養主義の勃興であろう。その象徴ともいうべきものが、「茶の湯」の存在である。すなわち安土桃山時代になると茶の名器を我先にと欲するようになる。時にはそれが恩賞として提供されることがあるほどに、それらの名器はもはや一つの貨幣的な価値さえもあったといっても過言ではない。そういった教養主義の中で千利休が圧倒的な支持を得たとしても何ら不思議ではない。
 こういった流れの中で千利休は「侘茶」を大成することになる。わびとはすなわち禅の概念においては無である。無とは死であり、わびとは臨死体験といえよう。すなわち侘茶とは戦の時代と教養の時代のはざまに須くして生まれた文化であったといえよう。
 このように安土桃山時代とは戦国時代からのリバウンドなのか動物性や身体性からの脱却ということが求められた時代であったと考えられる。

第二章 徳川家康の生い立ち

 徳川家康は幼少期の多くを今川家の下で育った。徳川家康の教育係は太原雪斎という今川義元の頭脳である。彼は相続問題の頃から今川義元に仕えており、その政治手腕は非常に高く評価されている。さらに徳川家康は三河支配のための人質という立場であったため、万が一にでも死ぬようなことはあってはならないため、他の武将に比べて幼少期の身体的な体験は少なかったのではないかと考えられる。さらに今川家は京との交流も多い大名であり、かつ駿府という城下町は非常に栄えており学を修める上ではこれほどの地はないといえる。徳川家康はそんな非常に文知的な環境で育った。
 よく創作物では話の構成上、織田信長との交流が殊更に強調されるがそこで接触があったかどうか定かではないうえ、尾張にいたのはほんの2,3年であるため、太原雪斎の教育を受けている時間のほうが長く、そちらの影響のほうが強いと考えることが妥当であろう。
 さてそういった環境で育ったために徳川家康は非常に頭脳派であったと考えられる。信長や秀吉は典型的な天才である。つまり、若いころの過酷な実地体験によって鋭利な政治的センスを磨きあげて上り詰めていった人々である。彼らはある意味で非常に動物的である。一方で家康はそういった意味では彼らとは毛色の違う指導者であったことは間違いない。

まとめ

 第一章と第二章をまとめると江戸幕府というシステマティックな政治機構が出来上がった経緯が推測できる。すなわち時代の機運は動物性からの脱却を求めていた一方で、それを満たす実力者は当時としては稀有な環境で育ってきた徳川家康ぐらいしかいなかったのではないか。つまり世間の需要と徳川家康の強みが合致したがゆえに江戸幕府というものが成立したのではないかとも考えられる。
 
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