好感度って必要?

自分で言うのも何だが、
昔から好感度は低くはなかったと思う
夫もそうだし、
そう育てたつもりはないのに、
子供たちもどうやらそうらしい

たまにいい子ぶって!というような
非難めいた雰囲気を出されることもあったけど、
私にしてみれば、
好かれたいのに、何でいい子ぶらないの?って感じだった
わざと毒づいたり、汚ない言葉を使ったりして、
墓穴を掘って嘆く人の気持ちはわからなかった

こんなに歳を取るまで気がつかなかったけれど、
私はそれをかなり意識してやっていたようだ
今で言う、「あざとい」
ただ、ほぼ無意識だった
意識的にするほど、賢くなかった

問題は、なぜそういう価値観を持つに至ったか、
ということなのだ

例えば、自分の子供が嘘をついたとき、
私は「嘘をつくリスクがわかる?
誰かの信用を失ったら、回復させるチャンスはほぼない!」
と叱ったのだけれど、
本来ならば嘘をつくことは正しくないと
言うべきところだろう
行儀の悪い子供や生意気な態度の子供は
嫌いではないけれど、かわいそうだなと思ってしまう
人に疎まれるリスク!というところだ

人の悪意に邪魔をされたくないという思いがある
誰かに刺されて死にたくない、というのと同じで、
注意深く避けたいと思っている
あなたに危害を加えない人間ですよ、ということを
全面に出す
それが私の生存戦略
どうか私に構わないで、放っておいて

それで今、私は思うのだ
好感度って必要?
自分のアイデンティティーくらい大切にしてきた価値観
誰かに必要で、何より重要だと言って欲しい
でも、本当はわからない
つらいのなら、今すぐやめたっていいのだ

戦って勝つっていう、生存戦略もあるよね?
戦わないし、負けるっていう、生存戦略もある
自分を否定する必要もないし、
誰かを間違ってるという必要もない、と
私は当たり前のことを自分に言い聞かせる
でも、好感度なんて必要ない、本当は
ただ安全そうだ、楽そうだ、という理由だけで、
そんなにしがみつく必要はない












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