自分らしさとは

 今日友人と「自分らしさ」とは何か、と言う話をした。正確には彼の主張は、「自分らしさを持つことを求められる社会ってキモくない?」と言うものだった。

 この意見には個人的に賛成する。自分らしさとは均質化された資本主義社会の中でコミュニティの一部として他者と同様の性格を持つことへの強迫観念に疲弊した者たちが追い求め、作り出した概念であると私は思う。従って、自分らしさを持つことを求めることは逆説的にこの資本主義的強迫観念に回帰する。それこそがこの行為のキモさの根源であろう。
 
 ところで、自分らしさとはいったい何なのだろうか。前述した通り、それはコミュニティにおいて自己を確立する他者との差異であると一般的に解釈される。しかしながらそんなものは本当に存在するのであろうか。
 答えはノーである、と少なくとも私は思う。コミュニティというのはそもそもほとんどの場合何かの共通点を根拠に結成される。わかりやすい例で言えば、弁護士事務所は同じような類の教育を受けて司法試験合格と言う共通の目標を達成した人々によって構成されて、大学などの教育機関は通常似通った学力を持つ人や似通った学問に対する興味を持った人々が集まる。従って、一般にコミュニティ内部の人間と自分を比較し、自分に特有のものを見つけることは外部の人間と比較してするそれよりも難しいということが言える。
 また、このコミュニティの枠が広がれば広がるほど内包する人間同士の共通点は薄れていく。一方でこれらの人間は多様化し、大多数のマジョリティと少数のマイノリティという構図から少数のマイノリティの集合という構図へと変化する。(無論、これらの集合はコミュニティの中に新たなコミュニティを形成する。)わかりやすく言い換えると、コミュニティの規模が大きくなればなるほど自分と同じような人間が存在する確率も高くなるということだ。つまり、結局のところどこへ行っても自分と同じような趣味、趣向の人間に出会うことは稀ではないのだ。

 ここで最初の問いに戻ろう。自分らしさとは何か。確かに「あなたの自分らしさとは何ですか?」と問うたときに躊躇せずに回答することができる人間が一定数いることは事実であり、何を隠そう私自身もその一人である。しかしもし、前述したように他人との差異と言うものが真に存在し得ないとしたら、これらの人々は何を根拠にその自分らしさによって自己を確立しているのだろうか。
 私は自己の理想像こそが、自分らしさを自分らしさたらしめる根拠であると思う。例えば、前述した問いに対して私なら「絶望を絶望として受け入れない、絶望すらも無意味であると考えるある種積極的ニヒリズムのような思想」と答える。しかし、私が実際に絶望的状況に陥ったとき上記のように考え、行動できるかと言われたらそんなことはないと思う。ではなぜ私はそれを自分の自分らしさであると定義しているのか。それは、私自身がそのように在りたい、と強く願っているからだ。自分らしさが自分自身で決めなければならないものである以上、その評価は主観の域を出ない。よって、それは前述したように真に他者との差異を表しているかが不明瞭であるだけでなくそもそも自分の特徴を正確に表しているかさえ疑わしいものである。そんな中で一つだけ真に言えることは、自分らしさを確立している人々はそこに自分を当てはめようとする、ということである。私であれば、何かに絶望したとき、この絶望には意味がないと思おうと努力することだ。従って私は、自分らしさとは自己の理想像であると思う。

 ここまで私なりの自分らしさに対する解釈を説明してきた。しかしこれは、最初に述べた通り決して強制されるべきものではない。つまり、自分自身の理想像を持つことが、必ずしも正義ではないのだ。理想を持てばそれはときに自分の進むべき道を示してくれるかもしれない。しかしそれが決して正しい道であるとは限らない。進むべき道がわからない中がむしゃらに進んだ先により良い結末が待っている事もあるかもしれない。大切なことは道がわからなくてもそれは悪ではないと知ることだと思う。

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