スパイと呼ばれた日
スパイと呼ばれた日
スパイと呼ばれた訳ではないが、あなたの名前はハンガリーのスパイだと言われたことがある。アメリカのサンノゼでホテル暮らしをしながら、アパート探しを始めたときのことだ。
まだ、車の確保もできていなかったので、公共交通手段もほとんどないような環境下、徒歩とヒッチハイクで、物件を探した。ようやく探した物件は、ジムもプールもついているし、日本人の住民もいるとのことで、特に不満に思い当たることもなく、事務所で契約書のサインを始めた。
キャサリンと呼ばれるスタッフの女性は、どちらかといえば、ジムで鍛えたようながっしりした風貌だったが、僕の名前を読み上げると、あなたの名前は知っている、確かハンガリーのスパイだと、つぶやいた。英語の発音に慣れていない僕にも、間違いなくそう聞こえた。コバヤシという名前は、日本でもポピュラーな名前の一つだからと、応じてはみたが、どうも、日本人とは関係なさそうだった。映画で見たのだと付け加えてくれた。
アパートには世界各地からやってきた人々が暮らしていたので、彼女が世界のさまざまな名前を知っていることはありそうだったし、特にまだアメリカ合衆国に来たばかりの僕をからかっているふうでもないので、パーソナルチェックに不慣れな手つきでしたサインは、ぎこちなく長々しいアラビア文字のようであるから、彼女には、エキゾチックに見られるにも無理のないことなのだろうと納得しておいた。
その後、現地で親しくなった日本人や現地人に一、二度は、名前のことを話しては、そんな映画があるのかどうか、尋ねたことはあったが、明快な答えを得ることもなく、そのことはすっかり忘れてしまった。
アメリカ合衆国に来て、買い物をするたびにパーソナルチェックを切って、サインをするのだが、日本人の苗字は、ローマ字にすると結構長いことに気がついた。漢字であれば、二文字でも、ローマ字だと母音と子音の組み合わせもあるので、知らないうちに長くなってしまう。日本人の苗字ぐらい長いのはインド人であろうか。おまけに、アメリカ人は、ファーストネームも簡略した愛称で呼び合うので、その違いが顕著となる。アメリカ合衆国のアドベンチャやサスペンスの映画では、悪者はときに、旧ソビエト連邦の組織だったり、同じく東欧または東南アジアだったりする。さらにはエスニックな辺境の諸国に時代ごとの世間的イメージがバイアスされて、スパイのイメージも形成されていくのだろうか。そう考えた所で、僕はそのときにひどく差別されたような思いもないし、あのときに彼女の言動は底意地の悪さがあったと思い直すものでもなかった。
その後、8年もたって、2005年のワールドカップをテレビでつけっぱなしにしていると、テレビの中で、コバヤシ、という音声が聞こえたように思えた。 それはクロアチアの代表選手のコバッチ選手のことだった。そのときに、始めて、シリコンバレーでキャサリンが言っていたのは、コバッチ(KOBAC)のことで、あって、実のところ、東欧では、ポピュラーな苗字であったことに気がついた。 スラブ語で鍛冶屋を意味するらしい。
その話を友人にしたところ、体操の鉄棒種目の離れ技にコバチがあるが、関係はないのかと指摘された。調べてみると、これもハンガリーのピーター・コバチ選手が1979年に編み出した技らしい。この間の北京オリンピックで日本の内村航平選手がこの技を披露して銀メダルを獲得している。
そうすると、それなりに有名な映画で、KOBACという、東欧の俳優がスパイで出演した映画となると、 そう多くはないと思った。インターネットで調べてみると、あのアルフレッド・ヒッチコックが千九百四十三年に制作している映画に「救命艇」 があった。第二次世界大戦下が、ドイツのUボートに撃沈された客船に乗っていた乗客が救命艇に乗り合わせ、心理サスペンス劇が繰り広げられるというものだった。この中に、父親がチェコ人のエンジン室技師コバックという人物が登場する。コバッッチとコバックが一つの語のバリアントなのかどうか、それ以上は不明だ。
キャサリンの見た映画がこのヒッチコックのサスペンスであったかどうかはわからない。僕がハンガリーのスパイだという疑いが晴れているといいのだが。
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