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京住日誌 28日目

  1463年(寛正4)4月以降、畠山義就は吉野の天川に潜んでいた。ただ息を殺すように生きていたわけではない。虎視眈々と捲土重来の機会を窺っていた。その手始がその年の(1463)11月に足利義政が行った一斉恩赦だった。この恩赦は8月に亡くなった足利義政母重子の百カ日供養に合わせて行われたもので、義就も赦免された。義政自身も妻冨子も義就贔屓であったと言われるから、何らかの配慮があったのかもしれない。赦免され、討伐対象から外れた義就であったが、上洛が許されたわけではないので、そのまま天川での潜伏を継続する選択をした。戦う体制を立て直す目的だったのだろうか?天川での義就の消息を語る資料は知られておらず、詳細は謎のままだった。
 ところがである。僕が日々通っている右京中央図書館に「月刊 HATAKEYMA」なる月刊誌が所蔵されているのがわかった。所蔵目録を確認すると「寛成5年(1464)新春スペシャル、畠山義就インタビュー」とあり、早速借り出してみた。未知の雑誌だったから、出版元を確認すると
「THE HATAKEYAMA 」とあり、要するに畠山家のPR誌のようだ。編集長は「MASANAGA HATAKEYAMA」とある。過去の号を確認してみると、編集長名が「YOSHINARI HATAKEYAMA」の号もあるので、家督を継承した者が編集長になるようだ。
 早速、寛正5年の新春スペシャル号を開いてみよう。インタビューは「天河大辨財天社」内の能舞台で行われた。まずは謡、三鼓、龍笛、の演奏があり、おもむろに畠山義就が登場。舞台中央で見栄を切る。インタビューは和やかながら、荘厳な雰囲気の中で行われた。

まずは雅楽の演奏
 インタビュアーは神保長誠(じんぼながのぶ)。
畠山義就の前で平伏する。そのままの姿勢で挨拶。

神保:義就様、ご無沙汰でございます。殊の外お元気  
そうで、何よりでございます。
義就:長誠、大義であるぞ。苦しゅうない、面を上げ!そして足を崩しても良いぞ。こんな山中まで、そして吹雪の中、ご苦労であった。
神保:滅相もございません。義就様こそ、インタビューをお受けいただき教授至極にございます。これで部数の倍増は間違いなし。増刷の準備もしており、政長様も殊の外お喜びで。
義就:(苦笑)
神保:それにしても先程の舞、素晴らしい舞でございました。京にお住まいの折は猿楽も田楽もそれほどお好きではなかったかと。
義就:こちらに参ってから稽古に励むようになった。いつも拙者を支えてくれる越智家栄は殊の外猿楽が好きでな。家栄の父も世阿弥の子である元雅のパトロンであった。さらには好きが高じて元雅の子、十郎大夫を開祖として、越智観世流を開いたのだ。拙者もその影響で習い始めた。京の時には気が付かなかったがし、その魅力がよくわからなかったが今はその魅力に取り憑かれおる。それにしても猿楽は奥が深いものよのぅ〜。
神保:それは何よりでございます。猿楽についてもお尋ねしたいことはございますが、時間も限られておりますので、早速インタビューに移らさせていただきます。最初の質問ですが、1日のスケジュールを教えてください。いつも何時にお目覚めですか?
義就:起きるのは、4時。毎朝4時過ぎに神官と共に祝詞をあげるが、その前に潔斎のため水を被り、白装束に着替えるのが1日の始まりだ。
神保:えっ毎日?本当に⁈
義就:訝る気持ちはよく分かる。しかし拙者がこの地に流れ着くまで、敵味方問わず、多くの血が流れた。その者たちの霊のためにも毎朝祝詞を捧げている。
神保:この辺りが義就様の部下思いで、義理堅さですね。その後は?
義就:皆と共に畑に出ることが多い。兵糧の確保は最重要課題であるからな。月に数回、山伏らの先達に従って大峯山で修験道の研鑽を積むのもこちらに来てから欠かしていない。もちろん近い将来の戦に備えて兵の訓練も怠っていないぞよ!
神保:それは手強い!わが、大将政長様にも申し伝えなければなりませんね。で、手応えは如何でございますか?
義就:確実に自力はついておる。時が来れば、精鋭を引き連れここを出発することになるだろう。
神保:ある意味安心いたしました。こんな山奥まで下野し、流石の義就様もさぞ戦意喪失なさっていると思っていましたので。
義就:拙者を見損なうでないぞよ!常在戦場の心意気で日々過ごしておる。
神保:それはそれは。さっちゃんにも聞かせたいお言葉でございます。ところで他に何かおっしゃりたいことは?
義就:色々言いたいことはあるが、一言でいえばI shall returnじゃ。
神保:義就様は英語も堪能でいらっしゃるんですね⁉︎。不覚にも存じ上げませんでした。
義就:マレーシア仕込みの英語じゃがな。ところで政長は達者かな?月刊誌に陀羅尼の広告を無償で掲載してくれておるのは恩義に堪えない。感謝を伝えよ。陀羅尼の売り上げで武具を揃えておる。
神保:かしこまりました。義就様のお言葉しかとお伝えいたします。しかしながら、陀羅尼の売上が好調ならそろそろ広告は有償にしなければなりませんね。
義就:うーむ…。残念じゃが時間となった。おーい、誰か、神保に陀羅尼を持たせよ!
月刊HATAKEYA 寛正5年新春特別号より
義就登場。オーラが違います

 このインタビューが暗示しているかのようにこの後、義就の運命に光が差し始める。京での政局は目まぐるしく動いていく。
 まずはインタビューのあった年の暮れ12月(1464 年寛正5)足利義政は宗門に入っていた弟を還俗させ、次期将軍に指名し、義視と名乗らせた。そして義視は義政の妻富子の妹良子を妻に迎え時期将軍としての地位を固めていく。ところが翌年、子供がいなかった富子に待望の男の子(義尚)が生まれ、事態はややこしくなる。幕府内にさまざな思惑が錯綜し、政局が動いていく。その恩恵を受けた1人が義就だった。その様相を時系列で追ってみよう

①1465年(寛正6)11月斯波義廉の支援を受け、潜伏先の天川で旗揚げ
②1466年(文生元年)8月天川を出陣し、壷坂寺に陣を構える。

壷坂寺は通称。正式名称は南法華寺

③同年9月2日壷坂寺を発ち、金胎寺城(河内)の入城。翌日3日烏帽子形城を攻め、落城させる。政長は重臣の遊佐長直を河内に派遣。河内の深田と広川に陣を構える。
④同年9月15日義就、遊佐長直の両陣営を攻める。17日両陣営を突破し、かつて義就が立て篭っていた嶽山城を落城させる。
⑤同年10月長年義就を支えてきた越智家栄の求めに応じて大和に転戦。布施城、高谷城を落城させ占拠。
 

 義就の一連の動きは京の政局混乱に乗じたものだ。大和国に転戦することで越智家栄への長年の義理も果たした。一定の成果を上げたことで、義政は元々支配下にある河内国に引き上げた。あくまで狙いは畠山家の家督だ。上洛しなければ話にならない。そしてそれは娘婿である細川勝元と袂を分つ決意固めつつあった山名宗全の利害にも合致した。そして宗全の意向が斯波義廉を通じて義就に伝えられ、事態はさらに大きく動くのであった。

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