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ご挨拶(主宰より)

はじめまして。名古屋大学文学同好会を主宰しております仲村有生です。前回の和歌配達さんの投稿から大分日が過ぎてしまいました。主宰の癖に行動が遅い所が私のカスたる所以です。

私は主宰ですので、この同好会がどんなことをやるのか説明する義務があるので説明しようと思います。
この同好会は、構成員がジャンルにとらわれず、自分の好きなことを好きなように書き散らかしていくという活動をしようと思って作りました。書き散らかされた文章というのは何の処理もされずに世の中を漂ってしまうと環境汚染につながる可能性があるので、このような場所を作ることでSDGsに貢献しようということです。めちゃくちゃエコな活動ですね。名古屋大学文学同好会というより、名古屋大学SDGs同好会~持続可能な社会をつくるために~に改名した方がいい気がしてきました。しかしそれだとただのカス団体になるので、あえて改名はしないでおきましょう。はい、活動の説明終わり。

私は天才ゆえさすがにこのまま記事を終わるわけにはいかないということに気付いてしまったので、一時間前くらいに考えたことでも載せようと思います。
最近インド哲学について考える機会があり、ちょっと調べてみたところ、面白い記事が出てきました。


私はこの記事もちろん全部読んでないですが、(読んでると思ったの?馬鹿なの?)1番面白いなーと思ったのは本当の仏教とはとても論理的で、仏教思想にはもともと論理的観点から議論を行うという態度があり、インドやチベットのお坊さんはよく喋るけれど日本のお坊さんは理屈を嫌うみたいな話でした。
そして、日本人は宗教の場においても日常生活においても議論というものがないが、それは仏教における議論の部分が切り捨てられてしまったからで、だからこそ理屈抜きで分かりあえるような俳句やお茶、お花のような感覚的な文化が発達したんだ、みたいな話があって、ふーんと思いました。それにより、日本では思想体系が育まれず、世界構造に対する理念がないぞみたいな話も展開されていました。
私は宗教や思想の専門家ではないので日本での思想体系がどうだとかはあまり分からないのですが、全く対極な思想をどこかで読んだ気がしました。
それは、谷崎潤一郎の『文章読本』です。この本の中で、文学(本)において日本語は語彙が少ないからこそ行間やリズム、視覚情報でその語の輪郭を持たせるんだみたいな話が展開されており、つまり、その語が語以上の意味を持つ場合があるからこそ観念的な世界の構築が可能であり、それが日本文学の最大の良さである、みたいな話が述べられていました。つまり、上の記事ではこのような文化が日本の弱点であるとしているのに対し、谷崎はそれを日本の長所だと見ているのです。
私は、大学一、二年生辺りはこの本をバイブスにしていた節があり、なおかつ太宰も大好きだったので、「本当の自分の思いなんていうのは、行間で読みとりゃいいんだ。もしくは、背中で語りゃいいんだ。雄弁は銀、沈黙は金だ」などと思っていたら、自分の気持ちや考えを何も語れないゴミカスコミュ障人間になってしまいました。

ゴミカスコミュ障というのは辛いです。なぜなら、どんな人にも気持ちというのはあって、それを他者に語りたい、認めてもらいたいという欲望があります。ゴミカスコミュ障だと、これが出来ないのですごく病みます。私は太宰が好きであり嫌いなのですが、太宰も、人に本音が話せないから道化を演じるだとか、家庭では薄氷を踏むような思いで喋ってるだとか、華美な服装は自分しかいなかったから自殺未遂しようと思ったとか色々言ってますが、これは全て自分の気持ちを吐き出せなかったことに原因があるのではないかという気がしてなりません。もちろん自分の気持ちを吐き出せないから悪いとかそういうことを言っているわけではありません。人に自分の気持ちを全てさらけ出すというのは難しいことですから。

自分の気持ちを素直に伝えられない苦しさと言うのを知っているからこそ、……私は今は谷崎じゃなくてこのインド哲学だな、と思うのです。



 

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