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 太宰治は文学に殺された

 人は、人がいるだけでは幸福ではないのかもしれないというのが最近考えることである。
 私の好きな作家に、太宰治という人がいる。彼は、友達もいたし、パートナーもいた。弟子や師匠にも恵まれていた。しかし、当の本人は全く幸せそうじゃなかった。それが、私がよく分からないと思うところである。自殺未遂を繰り返し、薬物中毒にもなった。
 私は、太宰に文学というものが存在したことこそが最大の失敗であったのではないかと思っている。太宰は文学なしでは生きながらえることはできなかっただろう。しかし、文学という空想上の拠り所が、彼を弱くし、また、死に追いやったのではないだろうかと最近は思っている。

 太宰は、中学までは明朗快活でリーダーシップのある元気な少年だったらしい。しかし、そんな生活も高校生になると一変する。彼が高校に入学したころから、全国の旧制高校が一斉に左傾化し、また、太宰の入学した弘前高校は全国で最も左翼運動が盛んな学校だった。太宰は、大地主の家の子である。つまりは、ブルジョア階級。左翼運動はブルジョアを倒さんとする運動であったから、当然、高校に彼の居場所はなかった。

 プロレタリヤ独裁。
 それには、たしかに、新しい感覚があった。協調ではないのである。独裁である。相手を例外なくたたきつけるのである。金持は皆わるい。貴族は皆わるい。金の無い一賤民だけが正しい。私は武装蜂起に賛成した。ギロチンの無い革命は意味が無い。
 しかし、私は賤民でなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。私は十九歳の、高等学校の生徒であった。クラスでは私ひとり、目立って華美な服装をしていた。いよいよこれは死ぬより他は無いと思った。

太宰治「苦悩の年鑑」『太宰治全集8』、筑摩書房、2008年、p274

 太宰は、高校の同級生が貴族階級を倒さんとしている一方、自身が貴族階級であるという葛藤により、随分気弱な青年へと変貌してしまったようである。それが太宰文学に大きな影響を与えたことは言うまでもない。

  『斜陽』にこんな一節がある。

 僕は高等学校へはいって、僕の育って来た階級と全くちがう階級に育って来た強くたくましい草の友人と、はじめて附き合い、その勢いに押され、負けまいとして、麻薬を用い、半狂乱になって抵抗しました。それから兵隊になって、やはりそこでも、生きる最後の手段として阿片を用いました。姉さんには僕のこんな気持、わからねえだろうな。
 僕は下品になりたかった。強く、いや強暴になりたかった。そうして、それが、所謂民衆の友になり得る唯一の道だと思ったのです。お酒くらいでは、とても駄目だったんです。いつも、くらくら目まいをしていなければならなかったんです。そのためには、麻薬以外になかったのです。僕は、家を忘れなければならない。父の血に反抗しなければならない。母の優しさを、拒否しなければならない。姉に冷たくしなければならない。そうでなければ、あの民衆の部屋にはいる入場券が得られないと思っていたんです。

太宰治「苦悩の年鑑」『太宰治全集9』、筑摩書房、2020年、p220

 太宰の語る弱さとは、このような弱さが多い。つまり、自身が貴族階級であること、そしてそのことをいたく恥じていること、貴族階級である自分を恥じ、憎みつつも、結局庶民にもなれない。身分の違いで、仲間に入れてもらえない。それは、彼自身の高校生の体験が大きく影響しているのだと言えるだろう。

 私は冒頭で、彼は人に恵まれつつも全く幸せそうではない、それは彼に文学があったからだと述べた。私は、太宰にとって文学が、感情の掃きだめとして機能していたのではないかと考えている。
 太宰は、とにかく文学上で自らの弱さをさらけ出した。普通なら、自身の弱い所について直そうとしたり、隠そうとしたりするところだが、彼はそうしなかった。己の弱さだけをたださらけ出し、考え、惜しみなく見せた。それは非常に危うい行為である。なぜなら、「自分は弱くていいのだ」という肯定だからだ。もちろん、そのような肯定が無意味であるとは言わない。ただ、堕ちきるところまで堕ちてしまうと、、、、、、、、、、、、、、、、、その先にあるのは、太宰もそうであったように、破滅だけである。自分は弱くてもいいのだと認めつつも、自分の弱さを乗り越えようとする意思も人生においては大切である。太宰は、現実と向き合うことから逃げ、ただ文学に己の感情を吐き出したのである。

 ここまで考えると、そもそも彼は本当に人に恵まれていたのかも疑問が残る。彼が文学に自分の弱い気持ちをさらけ出すしかなかったのは、現実で弱さを見せられなかったからであるとも考えられるべきであって、現実では本当の自分を見せていなかったのではないだろうか? 現実と向き合う代わりに、彼は自分の感情を文学に叩きつけたにすぎず、文学を自身の感情の慰めとすることで現実から逃げたのだ。
 彼の文学を読み解くキーワードとして、「道化」「嘘」というものがある。彼は、常に人に奉仕し、絶えず人を笑わせる。それを「道化」というのだ。
 道化については、『人間失格』『桜桃』などを参照してもらえれば分かるだろう。どちらも有名な作品なのであえて引用はしないが、例えば『人間失格』は、人間がどういうものか分からず恐れている主人公が、人間への求愛のために人を笑わせるのだ。人は、笑っている時は怖くないから。
 嘘については、『待つ』『女生徒』『東京八景』などに出てくる。例えば『女生徒』では、自分の個性のようなものを愛しているのだけれど、その個性を否定されることが恐ろしくて嘘を吐く少女などが描かれている。父親や母親に自分の考えを言ったところ、それを否定され、自分を出すことがよくないことであるということを学んでしまった少女だ。他人の気持ちに敏感な子どもで、特に親に否定されたのだから、自分の全てを否定された気になり、そして、 どんどん他人に都合の良い自分を「演じる」ようになってしまった子供などが登場する。これは、太宰文学あるあると言えるもので、こういう登場人物が出現しがちである。

 以下、『女生徒』からの引用だが、長いので読み飛ばしてもらっても構わない。

 学校の修身と、世の中の掟と、すごく違っているのが、だんだん大きくなるにつれてわかって来た。学校の修身を絶対に守っていると、その人はばかを見る。変人と言われる。出世しないで、いつも貧乏だ。嘘をつかない人なんて、あるかしら。あったら、その人は、永遠に敗北者だ。私の肉親関係のうちにも、ひとり、行い正しく、固い信念を持って、理想を追及してそれこそ本当の意味で生きているひとがあるのだけれど、親類のひとみんな、そのひとを悪く言っている。馬鹿あつかいしている。私なんか、そんな馬鹿あつかいされて敗北するのがわかっていながら、お母さんや皆に反対してまで自分の考えかたを伸ばすことは、できない。おっかないのだ。小さい時分には、私も、自分の気持とひとの気持と全く違ってしまったときには、お母さんに、「なぜ?」と聴きいたものだ。そのときには、お母さんは、何か一言で片づけて、そうして怒ったものだ。悪い、不良みたいだ、と言って、お母さんは悲しがっていたようだった。お父さんに言ったこともある。お父さんは、そのときただ黙って笑っていた。そしてあとでお母さんに「中心はずれの子だ」とおっしゃっていたそうだ。だんだん大きくなるにつれて、私は、おっかなびっくりになってしまった。洋服いちまい作るのにも、人々の思惑を考えるようになってしまった。自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども、愛して行きたいとは思うのだけど、それをはっきり自分のものとして体現するのは、おっかないのだ。

太宰治「女生徒」『女生徒』角川文庫、 2017 年、 p .31-32

 しかし、これはあくまでも太宰の作品であって、太宰本人のエッセイなどではないことには注意したい。つまり、この主人公は太宰ではないのだから、この主人公の思想を太宰と同じとみることは非常に危うい。テクスト論の流れを汲めばなおさらである。しかし、このような「道化」や「嘘」について太宰が文学上で何度も描き続けたということは、彼の中にそういう思いがあったということは否定できないだろう。
 つまり、太宰は実生活において嘘やおべっかを言い、常に道化を演じて、皆その道化を愛していたに過ぎなかったのではないかと考えられるのだ。本当の意味で誰にも愛されることはなかったからこそ、太宰は不幸だったのではないだろうか。皆が愛していたのは、太宰の影法師に過ぎず、実体はそこになかった。そして、なまじっか文学という感情の掃きだめの逃げ道があったからこそ、そのことと向き合わなかったのではないだろうか。
 これが本当か本当ではないかは太宰本人にしか分からない事であるし、不遜を承知で言うなら、どうでもいい。私が私なりに太宰を解釈するのならばこうなる。太宰は、文学に逃げただけ。太宰は、自身の現実問題に目を向けず、戦わず、逃げた。私は、そのことがひどく気に食わない。人間なら、戦えよ。戦わなかったから、お前は不幸なのだ。人は人を傷つけ、そして傷つけられて生きていくものだ。私は、どうしてもそう思ってしまう。
 笑うな。面白くなかったら、笑うんじゃない。嘘はなるだけ吐くな。それだけの話なんだ。


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