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しん次元!M-〇グランプリ開幕。

というわけで
しん次元!映画クレヨンしんちゃんの感想です。

みなさんはどうでしたか?

ぼくは面白かったんだけど
なんか無視できない ”なにか” があった

別にしんちゃんやひろしの声に馴染めないとか
みさえやかざま君たちの年季のある声に違和感を覚えるとか
そういうもんじゃなかった

声と言えばもう2代目の小林由美子さんに
バトンが渡されてからしばらく経つけど

あの当時 ”2018年7月6日” の放送以来、ぼくは世間と一様に
変わったことに対する違和感や名残惜しさを感じていました

毎年映画はちゃんと映画館で観に行ってたんだけど
新たな声に馴染めず物語にも集中できなくて…

その物語はなぜか分からないけれど
ぼくの知っている”クレヨンしんちゃん”じゃなくなってきていることに気づいてからはここ数年は映画もアニメも見る気が薄れていて

それでも毎年の映画だけはと思って義務的に観に行っている自分がいた。

だけど今回
フル3DCG制作と聞いてぼくは重い腰も持ち上げずにはいられなかった

3DCGは自分が学んでいる分野ということもあって
”これは絶対見に行かなきゃ”って思った
そしてびっくりした

3DCGの演出もさることながら
声への違和感がほとんど感じられなかった
本当に本当に。

まるで初めからそこに在ったかのように
昔のしんちゃんの面影もありながら小林さんとしんちゃんが共鳴して
輝いているような印象でびっくりを通り越して感動した

こんなことをのうのうと書いてしまっていますが
心の底から天井を突き抜けるほどしんちゃんが本当に好きなんです

好きだからこそ期待してしまっている自分がいて
その期待にいつも振り回されてしまって

長年続いてきたアニメの主人公を任される責任なんて
ぼくには到底想像もできないけれど
それでも僕たちの心に答えようとして努力し続けてきた
小林さんには本当に ありがとうを直接言いたいです。

それはさておき
映画の感想を改めて伝えるなら今年のクレヨンしんちゃんは
”お笑いのコント”をみている感覚によく似ていた

ぼくが小学生のころはよくテレビをつければ
エンタの神様がやっていて家族と一緒に見て笑っていました

最近ではPraimVideoで配信しているM-1グランプリの初回放送をみていて
特に今回の映画はそのM-1のお笑いの勢いに近い印象だった

決められた時間 あるいは枠の中で芸人たちが練り上げたネタを
ボケとツッコミで交互に勢いよく投げ合っている姿は
この映画と足並み揃っていた気がする

流れの激しい川のようにネタが流れてきて
それを味わう隙間や余韻なんてものはなく
笑いが込み上げてきたと自覚したときには
もう次のネタに入っている

そんな忙しさみたいなものを感じた

これは僕の願いだけれど
会話にはちゃんと”間”、”余白”をしっかりと入れて欲しいと思っている

あるいは沈黙ともとれるこの余白は
キャラクターの性格が一人ひとりあるように
会話の中でいろんな間の置き方があると考えている…
(例えばを書こうと思ったけどいい例えが思い浮かばない…)。

…例えばデザインでポスターを制作するとしたときに
スーパーのチラシみたいにギッチリと情報で埋め尽くすんじゃなくて
あえて余白を残すことで
一番伝えたいことが伝わるように配置する意識だったり…

オブジェクトの配置で視線誘導して
お客さんにみてもらいたい順番を意図的に作り上げて誘導したり…。
(伝わったかな…?)

そういう意味では
スーパーのチラシみたいな あるいは時間に追われて
どんぶり飯を箸で急いでかきこんだような印象が鼻についた

演出に関しては
制作スタジオは白組というところらしく
あのSTAND BY ME ドラえもんの3DCGも手掛けていたみたい
(クレしんでも感動の押し売りするのはやめて欲しい…。)

そしてクレしんが満を持して3DCG化ということで
観た訳だけれどもリアルに振り切るわけでもなく かといって
平面的でもないお互いの良いところを集めて作った
中間のような質感だった

それが良いか悪いかは置いといて
とにかく気になったのが しぐさの部分だった
なんか生きてる人間のような生命感が感じられなかったんだよね

というのも3DCGのアニメーションといえば
ディズニーのようなものを期待してしまっていたのかもしれない

水と油の分離のように
声の演技と動作がかみ合っていなかったようにも見えた
これが監督の解釈違いで起きていたら泣く。
(ちょっと書くの疲れてきた…)

映画の終盤ではミツル君の思い出の中に入って
いじめっ子から一緒に戦うシーンがあったけど
しんちゃんの”ミツル君はおらの仲間だ!!”みたいな下りのあたりでふと
合唱コンクールでおなじみの「信じる」がぼくの心の中に流れてきた

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笑うときには大口あけて
おこるときには本気でおこる
自分にうそがつけない私
そんな私を私は信じる
信じることに理由はいらない

地雷をふんで
足をなくした子どもの写真
目をそらさずに
黙って涙を流したあなた
そんなあなたを私は信じる
信じることでよみがえるいのち

葉末の露がきらめく朝に
何をみつめる小鹿のひとみ
すべてのものが日々新しい
そんな世界を私は信じる
信じることは生きるみなもと
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ぼくはこの曲が大好きで、特に

”信じることでよみがえる命”
”信じることは生きるみなもと”

という部分が映画の中で繰り返し響いていた。

この映画で信じるということはどういうことか。
現代社会ではインスタやフェイスブックで
みんな画面に夢中で
周りを見る余裕なんてないのかもしれない

そして相手を心の底から信じるということが
いつの間にかできなくなってしまっていて
心に傷をつけないために自分の殻に閉じこもってしまう
けれど その殻を脱いで外に出てみれば

周りの人たちは悪い人でもなく
優しい人たちでいっぱいだった

ラストのひろしの名言?シーンでも社会が~っていってたけど
そこにも繋がっているなと感じた

思うところはまだまだあったけれど
映画終わるまでには忘れちゃったからきっと些細なことなんだろう
まあそれでも言葉で捕まえてみんなで共有したいから
とりあえずもう一回また観たいな



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