エマニュエル・トッドの思考地図 感想

「知的活動」とはどのような行為を指すのだろうか。恐らく頭を動かす行為だろう、という漠然としたイメージは誰しも持っていることだろう。通常の生活を送っているニュートラルな状態よりは集中の度合いが高く、何となく生産的なイメージだ。そして「活動」というからには、何らかの成果物(無形のものを含む)が残っていることが望ましい。「知的活動」とは概念としていささか抽象的で、明確に定義することは難しい。著者のエマニュエル・トッド氏はこの「知的活動」という行為は、①入力、②思考(創造/分析)、③出力、の3つのフェイズに分解できるとしている。

①入力
入力とはすなわち知識のインプットのことである。トッド氏は知的活動において、このインプットの過程をを非常に重んじていることが本書の随所から伺えた。具体的なインプットの手法としては、とにかく読書をするのだそうだ。そしてアイデアを得るためには一冊だけでなく、ひたすら数を読むことが大事だ。例えばあるテーマについて調査する時、まずは関連書籍を複数読みあらかたのことを理解する。そしてそれらを読んでいる最中、ふとテーマから脱線するようなあらたな問題が表出することがある。そうなったら今度はその問題についての書籍をあたる。このように芋ずる式にテーマを増やし、相互で理解を深めていく。それらが脳に蓄積され、氏は今では脳が図書館のようになっているのだそう。
インプットは単純に労力がかかる為どうしても敬遠しがちだが、思考をするうえで最も重要な工程であることを再認識した。そして、自分が思っているインプットは明らかに量が足りてないことも改めて感じた。まあ要するに読書量を増やそうと思った。最近は、いかにして脳をサボらせずに思考するか(ダニエル・カウネマンの言うところのシステム2を使って思考するか)という事に関心があるので、脳科学についての本を何冊か読みたいと思う。

②思考(分析)
入力の過程が終わったら、内容を分析し精査する作業に入る。氏が分析の為に使用するツールは統計等のデータだ。分析の際に重要なのは、全ての前提に「事実」を置くことである。逆に「嗜好」や「志向」を前提として置いてしまうと、無自覚のまま思考が誤った方向に向かってしまうことがままある。有名な話だと、いわゆる確証バイアスに陥りやすいということだ。そして分析を正しく行うために、①で行った知識の蓄積が生きてくる。データを正しく理解するためにはある程度の背景知識が必要だからだ。
分析した事柄に意味づけを行うことが創造である。創造には必ずしもオリジナリティを付与する必要はない。既存の何かと何かを組み合わせることも立派な創造の形だ。個人的には創造という言葉自体ある種神格化されてるような気がしていて、何らかの起源であることに特別な権威がある、というような風潮を感じる。そういった背景からか、人は模倣に対してとても厳しい。「パクリっぽいアイデア(とりわけ自分の脳の中にあるもの)」に対して、もう少し寛容になるべきだと感じた。

③出力
さて、思考のフェイズが終了したらいよいよ出力のフェイズに入る。しかし、出力のフェイズで考える事は実は殆どないと言っていい。なぜなら出力とは、①・②の過程で脳内に蓄積したものをそのまま描写する作業だからだ。逆に言うなら、出力のフェイズで手や口が止まってしまうならば、それはそれまでの①~②の過程でなんらかの不十分な部分があるという事だ。文章の執筆で例えるのなら、考えながら書くのではなく、書く前に考えるという事だ。因みにこのnoteを執筆する際、学びの実践としてできるだけ本書を読み返さないことを意識してみたが、言葉の使い方を確認するために2~3回ほどは開いてしまった。
こういった話を読む中で、ふと以前読んだプログラマーの登大遊氏の「論理的思考の放棄」という記事を思い出した。この記事ではコーディングの方法について似たようなことが書いてある。読み物としても面白い内容なので、一読してみると何か発見があるかもしれない。両者の共通点として、つまるところ膨大な量のインプットが良質なアウトプットを支えているという事なのだろう。
noteの執筆には毎日投稿という文化(?)があるが、これらの話を踏まえると、その意義については中々考えさせられるものがある。

という多少ズレた感想をしたためたところで、そろそろこの文章を締めようと思う。本書は有意義でいい読書になったような気がしている。





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