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自由の不自由

小中高等学校で、登校拒否児が見られるようになって、かなりの年月が経ちました。

不登校なんて、かつては殆どありませんでした。

いつ頃からでしょうか?
段々と不登校の児童が増え、そのうち学校に行きたくない子どもの話を、あちこちで耳にするようになりました。

かつては、子ども同士の成長の過程で見られる“からかい„みたいなことはあったかも知れませんが、学校に行けないような児童はいなかったと記憶しています。

子ども同士のいさかいや喧嘩はありましたが、周りからみれば他愛ないことでした。

段々と苛めの質が違ってきているような気がしています。学校の原点が忘れられている気がします。

警察が介入する必要があるような虐めや人権を無視するような悪質な問題、更には虐めを受けた児童が転校に追い込まれたり自死したりすることを耳にする度に、胸が痛みます。

本来は、虐めをした児童に責任を持たせるべき問題です。学校も教育委員会も、明らかに虐めと思われる暴行を、絶対に認めないケ―スが多くて遣りきれない思いがします。

学校の現場は、もっと生きやすい場所である筈ですが…

以前は、選択肢がなかったので、学校を転校するとか、引きこもるとか…そんな選択肢は考えたこともありませんし、先ず選択肢もありませんでした。

現在のように、フリ―スク―ルとか等々の選択肢は全くありませんでしたし…

例えば、店舗で買い物をする時に、溢れるような商品の中から一つを選ぶのは、中々大変なことです。

以前は、選択肢はひとつのみ。他の選択肢など全くありません。
しかし、当時はそれが当たり前でした。その中で色々なことを学びました。

学校側も、現場の問題の改善を考えることよりも、この居場所がダメなら、他の居場所をといったことで、その場その場を凌いでいます。

これこそ選択肢は色々あって自由かも知れませんが、私には自由の不自由としか思えません。


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