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彦坐王の血統⑨ 袁邪本王

 「彦坐王(日子坐王:ひこいます王)」の一族について伝承を調べています。この「彦坐王」は 開化天皇(9代)の皇子ですね。
 
 この記事では 彦坐王(日子坐王)の子で、「沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)」との間に生まれた「袁邪本王(おざほのみこ)」について掘り下げていきます。


彦坐王(日子坐王)と「沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ) 」の間に生まれた子達:

 狭穂彦・沙本毘古王(さほびこのみこ) 
 狭穂姫・沙本毘売命(さほびめのみこと) 
 袁邪本王(おざほのみこ)
 室毘古王(むろびこのみこ)


この「袁邪本王(おざほのみこ)」は琵琶湖の東側に伝承が多く残ります。


「古事記」では袁邪本王は「葛野之別(かずののわけ)」や「近淡海蚊野之別(ちかつおうみのかののわけ)」の祖とされています。


<軽野神社>滋賀県 愛荘町岩倉

御祭神 :袁邪本王
相殿:日子坐王

配祀神(合祀):天児屋根命、倉稲魂命、誉田別尊(応神天皇)、句々廼智命、宇多天皇、菅原道真公

御由緒:
 第10代崇神天皇の御代に創祀されたと伝わる。また第13代成務天皇の御代に「軽我孫公」(かるのあひこのきみ)が軽野地三千代を御供奉田として奉納したという伝承がある。

<少し考察します>


 祀られている「日子坐王」は「崇神天皇(10代)」の異母兄弟で、「袁邪本王」は、「垂仁天皇(11代)」の従兄弟の関係性になっている。

 そして、「袁邪本王」の同母兄である「狭穂彦」は「垂仁天皇(11代)」と対立して武力衝突を起こしている。

 そんな関係の中で、「崇神天皇(10代)」の代に「袁邪本王」を祀る神社を創祀したとはどういうことでしょうか? 
 「崇神天皇(10代)」の代ということは「袁邪本王」自身がこのあたりを拠点に住み始めたという事でしょうか。

 そして第13代成務天皇の御代に登場する「軽我孫公」(かるのあひこのきみ)はどんな人物か?

 「新撰姓氏録」には「軽我孫公は治田連同祖で彦坐命の四世孫である白髪王阿比古姓(あびこ)を賜り、のち軽我孫姓(かるのあひこ)とした」とあります。

 つまり、
開化天皇(9代)(彦坐王の父)
 ー彦坐王
 ー〇〇(彦坐王の子)
 ー〇〇(彦坐王の二世孫)
 ー〇〇(彦坐王の三世孫)
 ー白髪王(彦坐王の四世孫)「阿比古」「軽我孫公」
ということになる。

ここ系図の中の(彦坐王の子)は誰か?
当神社では(彦坐王の子)の中でも「袁邪本王」だけを祀っていることから、「白髪王」は「袁邪本王」の子孫と推察する。

 つまり、
開化天皇(9代)(彦坐王の父)
 ー彦坐王
 ー袁邪本王(彦坐王の子)
 ー〇〇(彦坐王の二世孫)
 ー〇〇(彦坐王の三世孫)
 ー白髪王(彦坐王の四世孫)「阿比古」「軽我孫公」
ということになる。




●この軽野神社は通称で「堅井之大宮」とも呼ばれることもある。
「新撰姓氏録」には、彥坐王の「後裔」に「堅井公(かたいのきみ)」がある。 
この「堅井公」とも縁があるものと推察します。

立派な拝殿と本殿


なんとも境内の広い神社です。

 また、この「軽野神社」は「安孫子大明神」とも呼ばれていた。


<余談ですが・・・。>

軽野神社の周辺には、「白髪王」ゆかりの神社がいくつかある。

安孫子神社(滋賀県 愛荘町安孫子)あびこ神社
 御祭神は「天稚彦命」だが、彦坐王四世の孫「白髪王」の裔がこの地に往して祀ったものと伝えられている。

麻蘓多神社(滋賀県 長浜市益田町)
 御祭神が「白髪王」

⇒ 「あびこ」というワードがまた登場しました。これは白髪王阿比古姓を賜わったという伝承からですね。
以前に少し紹介した「依羅吾彦垂水(よさ あびこ たるみ)」と同じ「あびこ」というワードが用いられているのは単なる偶然でしょうか?


<輕野神社>滋賀県 愛荘町蚊野

 ※同じ名の神社が周辺にあります。

長い参道が印象的です。


祭神: 袁邪本王、彦坐王 
相殿: 玉依比賣命
配祀神(合祀): 大山咋命 菅原道真公


拝殿 とその奥に本殿

由緒:
 延喜式に愛知郡式内三座軽野神社一座とある。袁邪本王は近淡海蚊野別の祖で末裔がここに住して蚊野郷となる。一族に穴田君、熊取王、徳万君等がありこの末流が蚊野氏を称している。

⇒どちらの神社も、「袁邪本王」とゆかりがあるようです。


<御霊神社>滋賀県 愛荘町蚊野外

 祭神 袁邪本王 狭穂彦王 狭穂比賣命

創祀年代は詳かでないが式内「軽野神社」であるといういい伝えがある。
往古開化天皇の御孫「袁邪本王」がこの郷に下り給いその薨去後、御殿跡に祠を建て産土神としたとも伝えられている。 ー滋賀県神社庁HPよりー



<少し考察です>


 「悪疫などがあると、非業の死を遂げた怨霊の祟り」とされ、それを鎮めるために祀り上げたものが『御霊信仰』です。

 垂仁天皇(11代)に対して、奈良で武力衝突(反乱)を起こした「狭穂彦」が遠く近江の地で、『御霊信仰』の対象として祀られているということは、どういうことでしょうか?

「狭穂彦にも義があった。そんな中、非業の死を遂げた」と当時の近江の人々は考えていた。と思われます。


<この記事のまとめ>

 垂仁天皇(11代)に対して、奈良で武力衝突(反乱)を起こした「狭穂彦」の同母弟である「袁邪本王」の拠点が近江にあり、その地域では「狭穂彦」『御霊信仰』の対象として祀っていました。

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