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『孝元天皇が物部氏と連携』③大綜麻杵(補足1)阿波の銅鐸埋葬

 前回の記事で、「物部氏の祖」である「大綜麻杵(おおへそき)」と「伊香色雄」の親子の痕跡が、阿波(徳島)にあったという内容を紹介しました。この記事では、「考古学的な視点」で2世紀末ごろの阿波について見ていきたいと思います。
  

<阿波で出土した銅鐸について>

 実は阿波(徳島)は銅鐸の多い地域で、全国で発見されている銅鐸の約1割、50個近くが発見されています。そして、銅鐸は、以前の記事でも紹介したのですが、「阿波だけでなく、出雲・大和を含むエリア」で、出土しており、出雲ー大和連合との文化交流が伺えます。

徳島で出土した銅鐸について、同じ鋳型で作られた兄弟銅鐸が別の地域で出土しています。それは、山陰地方や吉備・大和地域であり、これら地域との交流を伺わせる傍証となっています。

参考資料: 徳島県立博物館の展示物より


 阿波での銅鐸の出土した場所は、徳島県東部に多く、特に、鮎喰川下流域那賀川流域に集中しています。

参考資料: 徳島県立博物館の展示物より

鮎喰川流域は、複数の銅鐸が一箇所で見つかっていることとと、近くに弥生集落が広がっていたことから、当時を知るに重要なエリアと考えています。

鮎喰川流域における銅鐸出土地
7点:星河内美田銅鐸(ほしごうちみた:徳島市)
4点:安都真銅鐸(あづま:徳島市)
3点:源田銅鐸(げんだ:徳島市)
1点:名東銅鐸(みょうどう:徳島市)
1点:矢野銅鐸(やの) 
1点:庄・蔵本遺跡

参考情報 徳島市立考古資料館の展示物より

<鮎喰川流域の土器と水銀朱(辰砂)>

 弥生時代後期の「鮎喰川流域の集落」では、播磨・河内を中心に、東部瀬戸内から大阪湾沿岸地域へ運び出される特徴ある土器が作られます。
 この地域性の強い土器は、水銀朱の採掘・生産拠点である徳島県南部の那賀川流域へも運び込まれています。
 徳島県南部の那賀川流域にある「若杉山遺跡」は全国でも類例の少ない「辰砂」(水銀朱)の採掘遺跡です。

 鮎喰川流域の集団は、貴重な地域資源である「辰砂」(水銀朱)の流通を担うことにより畿内とも関地域勢力との関わりを持つことになります。


<ちょっと考察です>

 史実として、【3世紀中頃】「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この頃が『実質的な日本の建国』と考えています。

 また、出雲口伝関連の書籍では、「物部一族」が北九州から大和へシフトしてきたとしています。その時期は、1回目が記紀における「7代孝霊天皇ー8代孝元天皇」の頃であり、2回目が、記紀における「10代崇神天皇ー11代垂仁天皇」の頃としている。

 この1回目の東征を行ったメンバーとして「大綜麻杵(おおへそき)」と「伊香色雄」の親子が含まれるとすると、北九州から畿内へ入る前に、ここ阿波(徳島)でも武力衝突があったと思われます。

 その東征以前から阿波にいた勢力は「出雲ー大和連合」と同じ「銅鐸文化」を有していた勢力であり、同盟関係にあったと思われます。

 少し情報量が多くなったので、今回はここまでとします。

 (つづく)

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