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弥生時代の日向(宮崎県)って?

 北九州を中心とする「銅鏡文化」が三世紀に 大和地方を中心とする古墳文化にシフトしていきます。そこに、宮崎県(日向)は関与したのでしょうか? 古事記や日本書紀では神武東征も宮崎県(日向)を起点にしていますね。

そこで古墳時代が始まる前の宮崎県(日向)について調べてみました。今回参考にしたのは「宮崎県立西都原考古学博物館 編著」の書籍です。

<宮崎の弥生時代は?>

【銅鐸】 ・・ 宮崎県では発見されていません。
      ※銅鐸は、出雲を中心とする日本海側や近畿地方に多く分布。

【銅矛】 ・・ 宮崎県では発見されていません。
      ※銅矛は北九州を中心として、瀬戸内地域などに分布。

【銅剣】 ・・ 宮崎県では発見されていません。

【銅鏡】 ・・ 宮崎県では ほとんど発見されていません。
  ※小さな銅鏡や「破鏡」(わざと割った鏡)の破片が出土している。

(NPO法人 守山弥生遺跡研究会のHPより)

 弥生時代の宮崎県では青銅器祭祀を受け入れていなかったようです。

【土器・石器】 ・・瀬戸内や近畿の物が出土している。
  ⇒人的交流はあった。

【軽石製品】
 宮崎は、火山の影響を多く受け、水はけの良い土壌で、軽石が多くとれます。縄文時代の土偶も、軽石で作られる「岩偶」であったりします。

宮崎県立西都原考古博物館のHPより


 弥生時代も 軽石で「鳥形品」や「家形品」など 造形物を作っていたようです。


【水田稲作の跡】
 宮崎県でも「水田稲作」の跡地は見つかっています。
 坂元A遺跡(都城市)等では国内最古級の水田跡が見つかっています。

 ただし、宮崎は火山灰が多く水はけの良い土地が多くあり、「水田稲作」よりも「畑作」に適しているため、明治時代でも「水田」:「畑」の面積比は「3:7」と畑の方が多かったようです。弥生時代も「水田」は多くなかったようです。

【花弁状住居】
 弥生時代の中頃から終わりにかけて、作られた宮崎県で特徴的な竪穴式住居。上から視ると花びらのような形をしている 。
 ルーツは朝鮮半島の「松菊里型住居」で、弥生時代前期には九州北部でも見られたが、広く普及しているのは南九州となる。

【拠点となるような大型の環濠集落】
宮崎県でも環濠集落は発見されているが、瀬戸内や近畿に比べ、少ない。中期から後期にかけて代表的な環濠集落は宮崎市の「下郷遺跡」があり、他には、西都市の「下尾筋遺跡」や「松本原遺跡」があります。 

 位置関係を示すために、宮崎で代表的な古墳群と神社もあわせて地図上に載せています。

ちなみに、弥生時代でなく、後の古墳時代に築造の遺跡ですが、
⚫西都原古墳群は、3世紀後半から7世紀中頃までの古墳時代の全盛期を通して、300基を超える古墳が築造されている広大な古墳群です。
 代表的な「男狭穂塚古墳」や「女狭穂塚古墳」は5世紀初めに築造されています。

⚫生目古墳群は、3世紀後半から5世紀頃までに古墳が築造されている。
 生目3号墳は西都原古墳群の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳に次ぐサイズ。九州でも3番目の大きさ。4世紀中頃に築造されています。

「宮崎県の古墳文化に関する勉強会」作成の資料より


次に神社。創建時期は明確でありません。
⚫都萬神社
 御祭神 :木花開耶姫命
 御創建の年代は定かではない。

⚫宮崎神宮
 御祭神:神日本磐余彦天皇(神武天皇)
 相殿  鵜鷀草葺不合尊(御父君)
     玉依姫命   (御母君)

 社伝によれば、神武天皇の孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと)が九州の長官に就任した際、祖父のご遺徳たたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられています。下って第十代崇神(すじん)天皇、第十二代景行(けいこう)天皇の熊襲(くまそ)ご征討の際に社殿のご造営があり、ついで第十五代応神(おうじん)天皇の御代、日向の国造が修造鎮祭(しゅうぞうちんさい)した旨が旧記に伝えられています。

<ここからは考察です>
 ここまでの情報を見ると、弥生時代の「宮崎」は、「銅鏡」や「鉄器」が多く出土している「九州北部」よりも見劣りがします。

『北九州を中心とする「銅鏡文化」が三世紀に 大和地方を中心とする古墳文化にシフト』というのは、やはり「北九州」勢が中心となっていて、「銅鏡」があまり出土していない「宮崎」が関与するとしたら 移動時の中継地点的な役割と推察します。

 北九州にて鉄器の普及により農耕技術が向上し人口増加が進んだ。そこで新天地を目指し、宮崎平野に来た。しかし、いまいち水田に適してない。じゃあ、西に向かって進もう。ということでしょうか。

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