出雲口伝における物部伝承④ヒボコ一族の侵攻
「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。
<記紀におけるヒボコの記録>
ヒボコは、「天日槍」「天日矛」「天日桙」(あめのひぼこ)などで記載される人物です。
『日本書紀』では、「垂仁天皇(11代)の御代に、新羅の王子である天日槍が渡来した」と書かれています。 天日槍は初め播磨国の宍粟邑にいた。その後、菟道河(宇治川)を経て、近江国の吾名邑に移動した。それから若狭国を経由して但馬国に居住した。
『播磨国風土記』では、次のような伝承がある。
葦原志許乎命(※1)と天日槍命が黒土の志尓嵩(※2)に至り、それぞれ黒葛を三條(みかた : 3本のこと)足に付けて投げた。
※1:あしはらのしこおのみこと : 出雲族の大国主と考えられている。
※2 : 黒土志爾嵩(クロツチノシニタケ)
⇒御形神社(みかた神社 : 兵庫県宍粟市一宮町森添)から南東 約2kmに位置する高峰山
下記の地図にも記載
葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。
一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。
【葦原志許乎命の黒葛】
以下に落ちた。
1本は、但馬国の気多郡(氣多神社がある)
1本は、夜夫郡(養父郡)(養父神社がある)
1本は、御方(御形)の村(御形神社がある)
【天日槍命の黒葛】
以下に落ちた
3本とも、但馬・伊都志(出石神社がある)
<ヒボコ一族の来日>
出雲口伝とされる<大元出版>の書籍にもヒボコ一族の記載があります。
【(書籍)親魏倭王の都 :(著)勝 友彦 : 大元出版】より
2世紀に辰韓の王子・ヒボコ(日矛)とその従者たちが、【出雲】に現れた。しかし、ヒボコは傲慢な気質であったため、出雲の人々と仲違いした。
そこで、ヒボコ集団は東へ進み、但馬国の【円山川】を逆上った。
そこでも出雲族に追い払われたため、上流の【大磯(豊岡市)】付近の広い沼地に舟を停泊させ、舟上生活を続けることになった。
ヒボコ集団は、土木工事を行い、沼の水を排出させ、広い肥沃な豊岡盆地を生み出した。そしてヒボコは豊岡の地で亡くなり、【出石神社】で祀られた。
ヒボコの子孫の勢力は、次第に広がり、タジマの南方にある【播磨】に侵攻した。しかし、そこは出雲族の支配地であった。【播磨】は、ヤマト(奈良)と出雲の中継地で重要な地域であった。
このころのヤマトの王はフトニ大王(※孝霊天皇(7代)のこと)で、播磨の攻略を御子たちに命じた。大吉備津彦と若武吉備津彦の2人は播磨の氷河の岬に進軍した。
(※これは以前紹介した「日岡神社」がゆかりの地ですね。)
争いの末、フトニ大王の勢力が勝利し、播磨を占領したが、そこに留まらず、出雲の勢力圏内であった、吉備国に侵入し占領した。
これにより、勢い盛んだったヒボコ勢は、分裂状態となった。
フトニ大王は、さらに出雲王国を滅ぼすことも考え、攻撃を命令した。
そして吉備から伯耆国に侵入した。
(※これは以前紹介した「高杉神社」やいくつかある「楽楽福神社」がゆかりの地ですね。)
出雲の勢力と フトニ大王の勢力が 伯耆で激しく争っているときに、ニュースが届いた。
「九州の物部勢力がヤマトに侵入してきた」
そのため、「フトニ大王」の勢力は出雲軍と休戦することとした。
しかし、時期を逸して、ヤマトに戻ることができず「フトニ大王」(※孝霊天皇(7代)のこと)は吉備地方の王に成り下がってしまった。
(つづく)
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