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孝霊天皇の鳥取遠征①「高杉神社」

この記事では『孝霊天皇』の鳥取遠征に関連する「高杉神社」を紹介します。「高杉神社」は「孝霊天皇宮」とも呼ばれています。

場所は大山の北側にあります。日本海側の巨大弥生遺跡である「妻木晩田遺跡」の近くにあります。 

高杉神社の所在地『鳥取県西伯郡大山町宮内88』
グーグルMAPでは「孝霊天皇宮」と出てきます。


摂社が2箇所ありますした。

2つの摂社の場所


摂社の1つ


反対の摂社の「賽銭箱」。 八番宮??


本殿の賽銭箱 「社紋は 高?」

<宮内の嫐(うわなり)打ち神事>(無形民俗文化財)


 社伝では、「雄略天皇丙辰(476)年に近郷で次々と不幸が続いたため、託宣(神のお告げ)してもらったところ、孝霊天皇(第7代天皇)に仕えた2人の官女「松姫命」「千代姫命」が、次に后となった「細姫命」に対して嫉妬して祟っていると出たため、3人の姫の社殿(本殿・仲殿・末殿)を創建して、神事を行ったところ、災難は治まり幸せに生活することが出来る様になったと伝えられている。
「うわなり」とは後妻のことです。室町時代から江戸時代にかけて、後妻打ち(うわなりうち)という民間習俗がありました。夫が後妻をめとったとき、先妻親しい女たちに頼み、使者を送って予告のうえで後妻の家を襲い、家財などを打ち荒らすというものです。

 神事は、氏子中から輪番で選出した「打ち神」3人が主役を務め、「下神主」が神事の補佐をします。 「今宵の神事潔ぎ良し」の言葉と同時に三方から進み出て打ち合わせ、「本殿の勝ち」の宣言で終了します。
 その後、御供が参詣者に配布され、これをいただくと無病息災になるといわれています。貴重な無形民俗文化財となっています。

 次回は、2024年10月17日 (土)に開催される予定です。
   ※閏年の旧暦9月15日開催


<ネットの情報より>

 高杉神社については以下のサイトに詳しく記載されていました。敬意を持って、一部抜粋&追記させていただきます。
< http://houki.yonago-kodaisi.com/F-Jinja-houkiW-C-daisentyou.html >  
詳しくは、こちらのサイトを御覧ください。


<高杉神社の祭神>
⚫大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、
 本媛之命(細姫)、
 松媛之命、千代姫之命、

⚫大足彦忍代別命(景行天皇)、押別命(忍之別命:景行の子)、
⚫誉田別命、小葉枝皇子(応神・誉田別の子)、根鳥皇子(応神・誉田別の子)
⚫天照御大神、武速須佐之男命、


<社伝より>
孝霊山は景行天皇により開かれ皇子「忍之別命」(押別命)の子孫となる「稲置の首」の本拠となり、当社は皇孫代々の宗廟でもあった。
  ※首:地方の県主・稲置に与えられた姓の一つ(おびと)

大正元年11月:以下の二社を合併
 大山村大字宮内字村邸鎮座の「壱之神社」
  (祭神:本媛之命)
 同大字同村早稲ノ上鎮座の「弐之神社」「参之神社」
  (祭神 松媛之命、千代姫之命) 

大正2年10月:次の二社を合併
 大山村大字平字村屋敷鎮座の「平神社」
   (祭神 小葉枝皇子、根鳥皇子、天照御大神) 
 同村大字宮内字屋鋪鎮座の「荒神社」
   (祭神 武速須佐之男命) 

<伝承>
 第七代孝霊天皇の御代に、さる高貴な方がこの地に滞在された。地方ではまれなことなので、この土地で美しい『松姫』、『千代姫』の二人を近くに侍らせた。しかし、都から正妻である『細姫』がやって来たため、三人の女性の間に嫉妬による闘いが始まった。遂に松姫、千代姫は恨をのんで亡くなった。

 その後、雄略天皇の御代、近郷に悪いことが続き、神のお告げにより、正妻に対する『二人の姫』の祟りであると知れた。そこで一の宮(本殿・細姫)二の宮(中殿・松姫命)三の宮(末殿・千代姫命)の三殿を建立して祀ることになった。

<ここから考察です>

⚫『うわなり打ち神事』は、境内の案内によると2人の官女「松姫命」「千代姫命」が、後妻の「細姫命」に対して嫉妬して祟ったもので、「本殿の勝ち」の宣言で終了となっている。
 しかし、「本殿」=「細姫」です。この関係性では、『後妻である「細姫」が嫉妬されているのに、「細姫」が勝って、祟りがおさまる』という不思議な構図になっています。

⚫<伝承>を読むと、「細姫命」のほうが「先妻」であり、「松姫命」と「千代姫命」は現地妻であり「後妻」です。

 つまり、以下のような構図になります。
 1.「細姫」は、現地妻である「松姫命」「千代姫命」に嫉妬して恨んでいる。
 2.「松姫命」「千代姫命」は 恨み殺されたため、「細姫」を恨む

 両者が恨み合っています。

『先妻が後妻を攻撃して、「本殿(=細姫)」が勝って、祟りがおさまる』
ということは、やはり「1」の「細姫」の気を紛らわすための神事であるように思います。それが、皇族が祟るのは体裁上、どうなんだろう?となり、伝承が歪められていったのでは、ないでしょうか。


 いずれにしろ「孝霊天皇がこの地にやってきて、細姫が追いかけて来た」ということが伝承がこの神社には残っていました。

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