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2人の吉備津彦⑦日岡神社 足掛かりの地

 岡山の<吉備津神社>HPの縁起には次のような一文があります。『「吉備津彦命」と異母弟「若日子建吉備津彦命」は兵を率いて山陽道を進軍し、まず播磨国に達してここを「吉備の道口」と定められ加古川の畔で神祭を行っております。その場所と思われるところに日岡神社が現存し天伊佐々比古命がお祀りされています。』

 これは『古事記』の孝霊天皇の条に書かれている内容でもあります。
 <於針間氷河之前居忌瓮而針間爲道口 以言向和吉備國也>
「大吉備津日子命と若建吉備津日子命は二柱共々に、播磨の氷河の碕に斎瓮をすえて神を祭り、針間を道口(みちのくち)と為て吉備国を言向け和したまひき。」


 と言うことで、ここでは「日岡神社」を探ってみたいと思います。

加古川の東岸にある「小高い丘」に位置します。
岡山県から、東に大きく離れた「加古川」。

 かつては加古川より西側が吉備だったという説もあります。

それにしても、吉備国の中心部から距離があります。このような場に拠点を構えたということは、吉備国との間に、例えば「姫路付近」に対峙しないといけないような勢力があったのかもしれません。

「随神門」
立派な拝殿です。

<御祭神>

【主祭神】
天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)
・・第7代孝霊天皇の皇子。亦名を「彦五十狭芹彦命」と申し、「吉備津彦命」とも呼ばれている。

【相殿】
 豊玉比賣命(とよたまひめのみこと)
 鸕草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)
 市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)

⇒確かに、「大吉備津彦命」が主祭神として祀られていました。

しかし、この神社では『播磨稲日大郎姫命』(はりまのいなびのおおいらつめのみこと)が脚光を浴びていました。『播磨稲日大郎姫命』景行天皇の皇后になる人で、あの「ヤマトタケル」の母にあたります。しかも、この地で「ヤマトタケル」を産んでいます。つまり「ヤマトタケル」は本来は「ハリマタケル」ということになります。

「ヤマトタケル」(小碓)と兄(大碓)が産湯を浴びた「石のタライ(盥)」(レプリカ)


播磨稲日大郎姫命の墓とされる「日岡陵」


 この神社には日岡陵古墳が隣接しています。この古墳は播磨稲日大郎姫命の墓に治定されており、4世紀代に築造された前方後円墳(全長80m)です。


ちなみに、小さな古墳もいくつか隣接しています。

<ここから考察です>
 この地は、「吉備津彦命」と異母弟「若建吉備津彦命」が大和盆地から「吉備」へ遠征する前に拠点とした地でした。

 また後の時代に景行天皇(12代)の后である『播磨稲日大郎姫』がこの地で「吉備津彦命」に安産の祈りを捧げ「ヤマトタケル」を産みました。そして『播磨稲日大郎姫』は終の棲家としてこの地を選び、この地で亡くなります。

『播磨稲日大郎姫』は「吉備津彦命」達と何か関係があるのでしょうか?
諸説あるのですが、『播磨稲日大郎姫』は「若建吉備津彦命」の娘や孫とされているようです。また「ヤマトタケル」の従者に「吉備武彦」がおり、「若建吉備津彦命」の子などとされているようです。

こうして図解してみると、世代間がどうしても無理がありますね。何世代か間に入るものと思われます。いずれにしろ、吉備一族にゆかりがあったため、「大吉備津彦命」を祖神として祀り、安産を祈ったことが分かります。

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