遅延

間宮征四郎

 明け方、淡く白んだ空を仰ぐとからすが一羽、私の上を飛んでいた。風に身を浮かべるが如く悠々と、かまびすしいほどの羽音を立てて、私にはそれが虚な調べとは思えなかった。
 間も無く列車がやってくる。午前七時発、東京行き。時計の針と機械音声のアナウンスがそう知らせてくる。汚れたアスファルトに掠れきった号車案内、私は「今日」もここに立ち、それこそ虚な実在としてただ、扉の開閉をそれらしく待つ。ひとも沢山いるようだ。私の前も、隣も、後ろにも、それぞれ違った顔立ちの違った年齢の、違ったニンゲンが立っている。もう少し時間が進めば、背後の線路にも私の待っているのとは違う行き先の列車がやってきて、やはり沢山のニンゲンが乗ったり降りたりするのだろう。それは極めて当たり前な世界の、この空間における変わったようには見えない光景である。そんな日々の連続は私たちの記憶に何かを細々と刻みつけている。水の液滴が岩を穿うがつが如く、ニンゲンの認識に変わらないという変化を与え続けるのだ。その中にも忘れずに留まっている変化の認識というのは、やはりニンゲンの感情や理性に閾値いきちというのがあるらしいことを示す。言ってみればそれは名前だ。私はさっき見つけた鴉に名をつけることをしなかった。隣や前後にいるニンゲンにも、今朝のご飯にだってそんなものつけていない。なんでも良いからだ。もしかすると隣にいるニンゲンは、見てくれは登校中の高校生風情だけれども本当はコスチュームを着ているだけのアンドロイドなのかもしれない。前にいる会社員風の男にしろ、鴉にしろ、その生き様も心も性質も私の見做しによってそう見えるだけなのだ。私自身でさえ、脊髄が神経と接続して駆動する肉体に過ぎず、医師という職業も、三五歳という年齢も、昨日恋人を殺したという事実でさえもが、私の記憶の蓄積から導き出された不確実性を孕む一つの見做みなしでしかない。名前がなければ物質も空間も時間も連続して確からしくは存在しえないのだ。
 生きるということも死ぬということも、所詮は状態を表しているにすぎない。これは数字と少し似ている。三五歳だから何なのだ。殺した数がイチ以上だから何なのか。そこには何があるというのか。自ずと知れよう、名前である。名前という、心が生み出した存在するための権利がそこには確かにあるのだ。
 さて、私は恋人を殺した。私もこれから死ににいく。東京駅で新幹線に乗り、京都あたりで自殺する予定である。鴉も学生も会社員も私が後々になって報道されるであろう名前を持つニンゲンとはまだ知らない。たとえ名前を知っても私のことだとは気付くまい。もし万が一気が付いたとしても、やはり私が何を思って彼女を殺害したかは知り得ない。誰も何も知らぬまま、名前だけが実体のない存在として残るだけである。
 私が良心の呵責かしゃくから自死に向かっていると思う者があれば、それは間違いである。恋人を殺害したことについて私は何ら思うところはない。彼女が死んでしまったこと、これまでの生活を送れなくなってしまったことについても、涙が出るほどのものではない。私はおかしいのかもしれない。最愛のひとを亡くしたというのにさっぱりなのである。
 私は彼女がかわいそうでならない。こんな私と一緒になる決意をして、貴重な時間を無駄にしたのだ。挙句、命も奪われてしまって、本当にもったいない。と唱えてみたものの、やはり悲しさは湧いてこない。わからない。穿たれた岩の如くもはや空洞が開いて、何も感ずることができないほどに心は壊れてしまったのだろうか。
 ただ絶望の匂いだけは、さっきキオスクで嗅いだ気もする。カゴに入れるべきか迷ったあの生ハムから漂っていたのだと思う。彼女はあれが好きだった。出会った日の夜や誕生会や記念日にはどういうわけか副菜として食卓に並んでいた。そんなに頻繁であったわけでもないけれど、生ハムは記憶の閾値を越えている。象徴になるほどの名前を持っているのだ、生ハムは。けれどカゴに入るほどの値はなかった。いやむしろ入れないだけの刺激を持っているのか。
 今、私が手に持っているビニール袋には、そういう意味で他愛のないものばかりが入っている。行ったこともない飛騨で育った牛肉のそぼろおにぎりに、味の想像もつかないサンピン茶。滅多に食べないスナック菓子とカニパン、それから眼鏡拭き。私は視力の良い方で眼鏡はかけたことがないが、彼女の影響でカゴに入れてしまう習慣がついた。カニパンは存在を知ったのはごく最近で、患者の或る若者が最後に食べたいと言っていたのを耳にした。さんぴん茶は大昔に家族旅行で沖縄へ行った時に母が飲んでみたいと言っていたもので、牛そぼろおにぎりは昨日までの私が毎日買っていた。レジの店員は私をよく食べる人だと思ったに違いないが、実際はどれにも手をつけるつもりがない。言ってみれば遺品のつもりであった。私という時間が、最後に何を携えて死んでいくのか、私自身が興味を持っていたのである。他の人は買わなかった生ハムの方にドラマがあると思うだろうし、実際のところその通りなのだが、このラインナップが私の最期なのだからそれだけのことである。
 あの店員は伊藤という名の女性だが、私はあの人に最期、挨拶しておきたいと思い始めている。彼女とは朝キオスクで顔を合わせる以外には、何ら関わりがない。これは一方的な感情である。向こうは私の名前も知らないだろう。だが、そう思えばますます知らせてみたくなってきた。医師をやっていること、恋人を殺したこと、浪人し苦労して医学部に入ったこと、恋人が一時期ドイツへ行ってしまったこと、アメリカで修行していたこと、どんな価値観でどんなことに悩み苦しんでいるのか、人生一番の良い思い出、これまで関わってきた愉快な人々、私という時間についての全てを。ただし、それは迷惑であろう。見ず知らずの人から仕事中に自分語りをされたらたまったものではない。エゴイストである。営業妨害である。テロリストである。
 だが私はもうそういうところにあった。日常から離れ切羽詰まって、誰でも良いから助けてほしいとそう願っているのだ。この感情は本当に絶望したひとにしか理解できないものだろう。むかし学校に刃物を持った男が入ってきて私の教室まで来たことがあった。周りの同級生や先生は焦りと恐怖の色を浮かべて、この狂人をどうにかして遠ざけようと扉を閉ざし隠れ、私も最初はそうしていた。けれど彼が発した言葉、「助けてください」という悲しい叫びが聞こえた途端に、私は彼に対して親愛めいたものを覚えた。私には彼の悲しみや苦しみが肌を伝う汗の如くはっきりとわかったのである。なぜ刃物を持っていたのか、どうするつもりだったのか、なぜしてしまったのか、それは私も知らない。だがそんなことは瑣末な末節である。問題は私が彼のその内心の名前を知っていたということだ。
 しばらくして警備員がやってきて彼は取り押さえられ、逮捕に至ってしまったらしいが、その時の感情は言うに及ばず、申し訳なさでいっぱいだった。
 その日の夕方、母から電話がかかってきて「変な人もいるものだ」と同意を求められて私は全身に虫唾が走った。ニンゲンはおそろしい生き物だと思った。私が仮にその「変な人」になったとき、誰も私を助けてなどくれないのだ。誰もがそうなる可能性を持っているというのに、真の狂人は誰なんだろうか。
 午前七時十分、列車は一向にやってこなかった。 


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