マボロシの浅草観音温泉 その1

おかしな注意書きというのはよくある。その昔、バウ!という本があったがその手のネタを集めたものとしては一番有名だろう。
実際、街を歩いているとバウ!的な風景に出くわすことがある。
俺が今まで見た中で印象的だった注意書きは、浅草にあった観音温泉の入り口の張り紙である。正式名称・浅草観音温泉は、かつて浅草寺と花やしきの間ぐらいにひっそりと建っていたスーパー銭湯だ。
今から五、六年前、俺は寄席の東洋館の出番を終えて散歩をしていた時に偶然、その前にやって来た。観光地のど真ん中であるにもかかわらず、全体が蔦に覆われた三階建ての異様なビル、それが浅草観音温泉だった。
突然目の前に現れたそれは、とうに忘れ去られた廃墟、もしくは近未来に戦争が起こった後のような現実離れしたオーラを放っていた。
観光客の誰もがその前を素通りして行く。こんなにもインパクトがあるのに、誰も気が付かないのだろうか。いや、気が付いてはいるがあまりの異様さにビビッて避けているに違いない。
蔦に絡まった看板には「男は黙ってサッポロビール」という昭和何年なんだよという広告がそのままになっている。
一階の硝子張りの入り口は入ったら二度と戻ってこれないのじゃないかいった世紀末感が漂う。営業時間や入浴料などの張り紙に交じって、いくつかの注意書きが貼ってあった。
その中にひときわ目をひいたのが「酔っ払いの方は入浴お断りします」というものだった。いかにも浅草らしいなと思った。
この近くには昼間から酒が飲める店が山ほどある。有名なホッピー通りもすぐ近くだ。だがその横に書いてあった注意書きに度肝を抜かれた。
「極端に不潔な方は入浴お断りします」どういう意味なんだ!
「極端に」って、どの程度不潔なんだ?しかも、不潔だから風呂にやって来たのにもかかわらず「入浴お断り」とは理不尽すぎるじゃないか。
さらにその近くにある別の注意書きにはもっと驚いた。
「一歳未満の赤ちゃん入浴禁止、うんち事件多発の為」
なんなんだうんち事件って!
しかも多発しているとは治安が悪すぎるじゃないか。
とにかく謎だらけの浅草観音温泉。一体、いつ頃まで営業していたのだろう。目の前にある大きな廃墟を見上げながら、俺はふとある衝動にかられた。それはこの廃墟にどこかからか侵入できないか。
子供の頃、近所にあった廃屋に友達と探検ごっこをしたように、俺は忍び込んでみたくなったのだ。

つづく


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