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伊勢警備隊について

「伊勢警備隊」とは、太平洋戦争末期の昭和二十年三月、日本本土空襲が激化しつつある中、三重県の伊勢神宮の防備強化のために編成された部隊である。本文ではこの、僅かな期間とは言え、神宮守備の任を全うした知られざる部隊について書いていきたいと思う。


知られざる部隊

まず、戦史叢書「本土決戦準備1 関東の防衛」に本部隊について説明している箇所がある為、一部を引用してみる(以下引用)
「二十年三月十日の東京大空襲に続き、三月十一日約130機名古屋来襲、三月十三日約90機大阪来襲、三月十六日約60機神戸来襲、三月十九日約160機来襲、三月二十四日約130機名古屋来襲とB29の中部地区への来襲が激化した。伊勢神宮警備強化のため三月三十一日、伊勢警備隊および独立高射砲第五大隊の臨時編成が発令(軍令陸甲第五十九号)された。(中略)
 伊勢警備隊は名古屋師管区司令官の隷下に、独立高射砲第五大隊は名古屋高射砲隊(のち高射第二師団)に編合されて、それぞれ伊勢地区に配置されて防衛に任じた。」と、なっている。
 伊勢警備隊は、伊勢神宮の警備という任務の特異性もあってか、動員管理には「禁闕守衛」を旨とする当時の近衛第一師団が当たり、実際に本部隊の兵員の多くも近衛第一師団からの選抜兵たちだったとされる。太田輝男氏(近歩一より転出)や宮脇誠一氏(近歩七より転出)の回想によれば、師団隷下の聯隊ごとに各中隊より若干名が選抜されて警備隊に転属となったようである。
(※警備隊第一中隊は原隊が近歩一の兵で占められていたようだが、第二・三中隊ではどうだったかは不明)
一方で、警備隊機関砲大隊所属だったと思われる北川力夫氏は「名古屋にある機関砲大隊(具体的な部隊名なし)」より派遣された、と書いており、やはり、全部が全部、近衛よりの選抜ではなかったと思われる点にも注意が必要だろう。実際、北川氏自身も、「装備の詳細は明らかではないが、招集された将兵が多く、 被服類も決して十分ではなく、要するに精強なエリートとのイメージはなかったように思う。」と、暗に部隊の内実について語っている。これが、部隊全体だったのか、機関砲大隊内だけでの実状だったのかは判然としないが、後述する宮脇氏の「新設部隊なので、着のみ着のまま」などの回想を見ると、一般に考えられる「装備優良な精鋭部隊」という部隊像とは些かの乖離を、感じざるを得ない。やはり伊勢警備隊も、戦争末期の一般的な流れとは別ではなかったのだろう。

伊勢警備隊の編成

〇伊勢警備隊(長以下1648名、馬17頭)
    部隊長 河野欣吾 中佐
・警備隊本部(部隊長以下76名)
・警備大隊(大隊本部 長以下36名)
    大隊長 牧野茂 少佐
 第一〜三中隊(歩兵中隊、各中隊は長以下173名、小銃134、軽機9、重擲9) 
  第一中隊長 肥沼俊三 中尉
  第二中隊長 不明
  第三中隊長 不明
 第四中隊(工兵中隊、長以下236名)
    中隊長 中村栄一 大尉
・警備隊機関砲大隊(長以下672名、六個中隊、機関砲計18)
    大隊長 清水善三 大尉
・通信中隊(長以下112名)
    中隊長 竹田 中尉

近衛隊も食事が満たさねば…

神宮皇學館(昭和十六年)

部隊が発足して早々の四月には、部隊は続々と伊勢の地へと足を踏み入れた。元神宮少宮司の杉谷房雄氏は、警備隊が到着した頃について、こう語っている。
「戦争も終りに近い昭和二十年四月十六日の早朝であった。宇治山田駅長から神宮に電話があり、一列車の近衛兵が唯今到着したがどうしたらよいかとの事であった。皆泥まみれで食事もとっていないそうであるが、神宮には何の連絡もなかったので、取り敢えず市に交渉して朝食を支給し、隊長に神宮司庁まで来て貰う事にした。隊長河野欣吾中佐の話によると、一昨日の帝都空襲で皇居は宮殿の大半が炎上した為、宮域警備の兵員を割き神宮を防衛せよとの聖旨であるとの事であった。」
興味深い回想である。しかし、「四月十六日」と明確に書いている割には、その頃にはまだ大部分が健在だった宮城(皇居)について、「大半が炎上」したとされている点など、少し誇大すぎるきらいがあり、日時も間違えている可能性が高いように思う。北川氏の回想では、
「近鉄宇治山田駅に降りた途端、数百名の部隊は、いきなり米機の猛烈な機銃掃射を浴びた。突然のことで逃げ場もない。茫然として身を伏せていると、やがてこの一波は去り、間もなく全員の無事が確認された。昭和二十年四月上旬のことである。 」とあり、部隊は到着初っ端から敵機の洗礼を受けたことが書かれている(これが、杉谷氏の回想で兵が泥だらけだった理由だろうか?)。筆者がざっと調べた限りでは、昭和二十年四月七日・二十二日のいずれかの空襲である可能性が高いと思われるが、中でも、この回想では「米機の猛烈な機銃掃射」と書いているのを見ると、攻撃しているのは、爆撃機というよりも戦闘機の可能性が高く、そうなると北川氏の部隊が到着したのは二十二日の可能性の方が高いと言えるだろう。四月二十二日の空襲には、B29四機に対して、P51戦闘機四十機が参加し、明野飛行場、波切、宇治山田、松阪などを攻撃したとされているからだ。こうした回想を読んでいると、警備隊は発足当初より順風とはいえない開始を切っていたことが分かる※¹。
さて、伊勢警備隊の本部は虎尾山麓※²の神宮皇学館に置かれ、第一中隊は外宮、二・三中隊は内宮と警備担任が分けられた※³。
第一中隊を例にとると、当初は宇治山田駅前の旅館「朝日館」を宿舎としたが、直ぐに外宮近くの宇治山田高等女学校の雨天体操場及び教室の一部を借用し兵舎としたようである※⁴。中隊は外宮および付属神社、並びに周辺神域の警備を任とし、三個小隊の内一個が衛兵勤務、他は控および非番として概ね宮城の御守衛勤務と大差なかったようだ。回想では控や非番となると、計画に基づいた防空戦闘訓練の他学科教育及び食糧不足のため、借用農地で自給自足の農耕作業に従事した、ともある。上記のように、戦争末期の他の日本軍部隊の例にもれず、伊勢警備隊においても食料不足は深刻だったようで、時期は前後するが、宮脇氏(内宮警備)の回想にも
「警備に当たって早くも半年、新設部隊なので、着のみ着のままだ。そして食事が足りない、空腹でやりきれない。一日数回空襲がある、時として一日中夜も昼間も空襲の連続の時もある。空襲になると全員警備態勢を取り防火要員として駆足で神域に入る。
宇治橋の橋の中央に一筋、30cm角位の車留の角材が敷いてあるがそれすら空腹と疲労の為駈足で飛び越える事が困難な時もある。」や、
「隊の方でも防火隊が駆ける間に敵機が通過する事も度々、一日中昼夜空襲では兵の疲労も激しい。遂に神域に壕を掘り草で屋根を作り、日夜其所で待機することになった。そんな事で五十鈴川のお手洗所の鯉も全部喰べてしまった。
着のみ着のままなのでシラミが繁殖し暇をみては川原で湯を沸して消毒、洗濯をした。川原の石の下に『沢ガニ』と云う赤い小さな『カニ』も探して生で喰べる事を覚えた。近衛隊も食事が満たさねば皆人間の原点を見る思いがした。」といった記述がある。
この点について、機関砲大隊所属の北川氏も、「食糧の調達もままならない。正規のルートのほか、中部軍に直訴することも多く、さらに遠く長島や尾鷲まで買出しのトラックが往来することもしばしば。外地の戦場とは違った悩みも少なくなかったのである。」と書いており、警備隊全体が相当な食料難であったことが察せられる。

※¹=ここまで書いておいて、正直な所、杉谷氏の云う、最初に到着した警備隊の部隊と、北川氏の部隊(=警備隊機関砲大隊)が同じかどうかという疑問を筆者は持ってしまっている(二つの話は、所々で食い違いがあるように思える)。警備隊、特に東京の近衛第一師団から転属する場合は地理的な遠さもあって遅れ、名古屋にいたという北川氏の部隊が先に到着したというのも、ありそうではあるが…
※²=太田氏の回想に拠ったが、実際のところは不明。しかし、宮脇氏の回想でも「部隊本部は皇学館に置かれていた」と云う記述が見受けられる。
※³=工兵の第四中隊は内外宮に小隊ずつ配備されたようで、警備隊機関砲大隊は、その「近郊の明野」付近に配置していたようだ。※⁴=北川氏の回想「宿舎についても、まともな兵営があるわけはなく、市内の大きな建物や小学校の一部を借りるなど、戦場さながらの苦労が絶えなかった。隊長の住居には有名な赤福餅の邸の一角があてられ、進修小学校、如雪なども警備の重要な根城となっていたように記憶する。」


神域にも焼夷弾

さて、そうした食料不足などに苦しみながらも、上記の回想でも出ている通り、警備隊の守備する伊勢の地は米軍の空襲に度々遭ってきた。ここでは特に「最大規模」と云われた七月二十九日の空襲に焦点を当てていきたい(以下、当時、外宮守衛に上番していた第一中隊第二小隊長・太田輝男氏の回想から)
二十九日は(前日二十八日)午後九時頃から空襲警報が発令、十一時頃より神宮への直接的な焼夷弾投下が始まったとされ、境内はたちまち火の海と化し、兵は必死の消火活動に当たった。消火活動は翌七時すぎまで続けられ、下士官兵数名の負傷と散在する一部のお宮への被害を出したものの、幸い本殿への被害は最小に抑えられたという。太田氏自身は外宮の消火設備が特別優れていたこと(境内の至る所に消火栓が設置され、また裏山にあった貯水槽には防火のために、全ての消火栓を開けても四時間は保つ程の水が貯えられていた)、そして兵の必死の消火活動を、焼失を防げた理由に挙げている。
翌朝になった頃には、消火に当たった各自の顔は真っ黒にすすけ、眼は真っ赤に充血し、火災の激しさを物語るようであったという。
「(空襲の)翌日から焼けた杉の木の古木は全部切り倒し、神宮でも不要とのことで、付近の住民に無償で分け与えられ大変に喜ばれた。神域内に落された焼夷弾を回収したところ校庭に山をなし、その数二千発であった。それらを眺めながらこれだけ落されたのにほんとうによく消してくれたと兵に対する感謝の気持ちで胸が熱くなった。」
最初の方で引用した杉谷房雄氏の回想でも、内宮は奇跡的に、爆弾の全部が五十鈴川の外の山林に落ちたが、外宮は雨霰と落下する焼夷弾で、宮域は昼間のようであったという。
「何しろ警備隊が搬出した焼夷弾の殻は、宮域内だけで実に大型トラック三台に上り、宇治山田市の大半を鳥有に帰したのであるから、凄まじい攻撃であった。然し後に調査してみると、御正殿を始め各殿舎に何の御被害もない。多賀宮板垣と御階に油脂が附着し発火したが、これは警備隊員が身体をこすり付けて消し止めたという。これだけの焼夷弾が投下されて御社殿に被害のなかった事は、神異と申す外ないが、 伊勢警備隊の功績を忘れてはならない。特に工兵隊長中村栄一大尉の努力は大変なものであった。」
ここでも、敵方の爆撃の激しさと、それに対して懸命に消化活動に当たった警備隊の姿が印象的である。しかし、奇跡的に大きくはなかったとは言え、お宮の一部に被害を出したことに対して、非難する声も少なからずあったようで、機関砲大隊所属の北川氏は、
「七月の下旬、外宮の一部が米機の焼夷弾を受けて炎上した。あってはならぬことが起こったのである。まちに出ると人々の声は厳しい。兵隊さんたちは何を警備しているのですか。神宮のまちの人々は誇りが高い。 それだけショックも大きかったようだ。単刀直入な問いかけに立往生した。答えようがないのである。ただどうしようもないという絶望感にかられるだけ。戦争は早く終わらないのか。敗戦前夜の実感であった。」と、当時の心境を書いている。

終戦と御垣守

昭和二十年八月十五日、玉音放送後の状況について、まず太田輝男氏の回想から引用する。
「八月十五日の陛下の詔勅拝聴後はやはり大きな動揺があった。先ず十六日以降外宮への参拝者がひとりもなくなってしまった。もう神頼みもだめということであろうか。全くのおどろきであった。中隊で某少尉が神宮からの依頼で八咫鏡を奉持して逃げるから、お前達も勝手に行動せよと云って中隊から離脱したため、その小隊の兵十三名が脱走したが、宇治山田駅で明野航空隊の少佐に発見され、十二名が外宮衛兵所に連行され当日の司令であった私に引渡され、大変に怒鳴られてしまった。」
当人も文中で書いている通り、終戦後に部隊内でかなりの動揺があったことを覗わせる記述である。特に、「神宮からの依頼で八咫鏡を奉持して逃げる」と云っていたという、某少尉の話は興味深い。個人的には、
・某少尉とは何者なのか
・本当に神宮側からの依頼があったのか
・実際に八咫鏡は持ち出されたのか…等々。
かなり気になるものがあるが※¹、残念ながら文中でこれ以上の言及がないため、現状では確かめようがないだろう。
話変わって、玉音放送後の状況について、宮脇誠一氏の回想も引用してみる。(長いが、中略せずに原文のままで、一文を載せる)

「玉音放送後が終り仮眠をとっていると、部隊本部の呼出しに隊長が側車でがたがたと駐屯所を出て行った。週番司令集合、週番下士急々集合等々大変な事が発生したと気付いた。其の内に火災呼集だ、演習でなく本物だ、鉄帽、防毒面、脚絆を持ち前庭に出る。早くも隊長以下少隊長、班長も軍装して沈痛な面持で兵の集合を待っている。兵の集合が終ると内務班の残留を確かめて直ちに神域に駈足で入り、衛士詰所前の広場に折敷を命ぜられた。
二時間、三時間とうとう全員がだれてきた。やぶ蚊に喰われ、煙草も少く待機も大変だ。夕食事になったが班長も将校も我々の廻りに立って監視している。部隊本部に命令受領に行っていた兵が帰り、隊列に加わった。内容は解せぬまゝどうも日本が敗けたらしいと、噂のヒソヒソ話が飛んだ。トイレに事を寄せ真相を確めはじめて敗戦を知った。残念だ!!。
班長に我々は上司に決して背く意思なし、直ちに駐屯所に帰すべしと進言した。すっかり日が暮れ神宮の森の暗やみの中で将校下士官が密談やがて全員が駐屯所に帰された。
内務班に帰ると兵器が全部無い。全員青くなった。下士官室に走り班長に報告すると、班長も兵器を失い青くなっていた。其の内週番上等兵が外から帰り兵器は週番司令の命令で全部司令室に集められて居るとの事一同『ホッ』として夕食にした。」

宮脇氏の隊の方でも、かなりの混乱があったことが察せられる。火災呼集で集められ、その後、(上官の監視の下で)長時間に渡って待機を強いられた、という話など、明らかに太田氏の上記回想と関連していそうに(個人的には)思われる。太田氏の話や、それと類似したような兵隊の脱走(場合によっては将校も勿論含まれるだろう)が起こったために、もしくはそうした事が起こらないように、宮脇氏の隊の方で、こうした束の間の緊張的な出来事が起こったのではないだろうか。少なくとも、内務班の兵器が全部、週番司令の命令によって回収された、という話は、明らかに、そうした「軽挙妄動」をさせないための予防措置だろう。
さて、そうした直後のゴタゴタはあったにせよ、それも時間と共に落ち着いていったと思われる※²。その後、放送一週間後には部隊の解隊式が行われたと、宮脇氏は書いている。
「いよいよ放送後一週間も経てから解隊式が神宮前広場で早朝より行われたが段上に上がった牧野中佐※³は腕を挙げて男泣きに泣いた。そして、牧野大隊長は『陛下のお役に立てず誠に残念である。御聖旨を思うと万感胸が詰る』と泣かれた。諸兄には長い間ご苦労であった、本官と行動を共にし感謝すると挨拶。全員が涙を飲んだ。
『諸兄は本官に命を預けた者である、どうか早まった事を起さず事故を起さない様、錦をかざる事は出来ないまでも、真すぐ故郷の家に帰り、日本の復興の為に幾多の困難を切り開き近衛兵の真ずいを発揮せよ』と結ばれた。」
伊勢警備隊の終焉であった。こうして、大戦末期に編成された、神域の守護を以て任ずる御垣守は、人知れぬ歴史の流れに姿を消したのである。
式後、一部は治安維持のため臨時憲兵(補助憲兵?)として米軍管理下で一ヶ月程終戦処理に当たり、それが終り次第から復員した。アジア歴史資料センター所収の史料によれば、伊勢警備隊は「昭20.9.20復員」とされている。

※¹=小隊の兵十三名が脱走した下りも、その後の外宮衛兵所に連行された人数が"十二"名と、一人欠けているのは誤字だろうか。そうでないとすれば、これも気になる話ではある。
※²=実際、宮脇氏よりも前に引用した太田氏の回想は、
「しかしその後は平穏で全員が無事に復員することが出来たが、」と続いている。やはり一時的な混乱だったのだろう。
※³=部隊長である河野中佐の間違いと思われる。

参考文献

防衛研究所戦史室「戦史叢書 本土決戦準備〈1〉関東の防衛」
益井康一「本土空襲を阻止せよ!従軍記者が見た知られざるB29撃滅戦」(主に巻末の資料である「日本本土空襲一覧表」を使用した)
宮脇誠一「『終戦時』伊勢警備隊解散の前後」(近歩二会編「たちばな」第22号)
太田輝男「大任を全うした伊勢警備隊」(全国近歩一会編「近衛歩兵第一聯隊歴史(下)」)
北川力夫「伊勢警備隊のころ 式年遷宮の年に」(社会保険 1993年4月)
杉谷房雄「五十鈴川雑記」(瑞垣 1969年9月)
同上「聖上陛下神宮行幸の想い出」(瑞垣 1975年10月)
アジア歴史資料センター「陸軍部隊(主として内地)調査表 昭和20年8月15日現在」中の、東海軍管区部隊の表より。https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&REFCODE=C12121071000&BID=F2012122711450812409&ID=M2012122711450812410&NO=&TYPE=dljpeg&DL_TYPE=pdf

同上「昭和二十年四月十五日 陸軍異動通報 第87号」https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?LANG=default&REFCODE=C12120938500&BID=F2012122711393211080&ID=M2012122711393211085&NO=&TYPE=dljpeg&DL_TYPE=pdf
Wikipedia(画像引用など)


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