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学生運動を知り、経済学に興味を持つ[Footwork&Network vol.25]

「三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜」という映画を観た。今の自分と同年代の学生が、少し無責任に見える部分はあるが、学生運動に熱中している様子が印象的だった。自分を含む同年代の学生はバイトをしたり、スマホをいじったり、たまにしか投票に行かなかったりする一方で、当時の学生はとてつもない熱意を持って政治を変えようと行動していた。「なぜこの時代の学生はそんなに活発だったのか」この映画を通じてそんな疑問を持つようになった。漠然と頭の片隅でそのような事を考えていたところ、たまたま年配の方とお話する機会があった。たまたま、外国の博物館で学生運動家の写真を見かけた。そんな偶然をきっかけに社会への仮説を持つようになり、それを実証する手段として、ある種共産主義とは程遠い経済学にたどり着いた。本noteでは、その経緯、そこで考えた仮説、そして経済学を通してやりたいことを紹介したい。



人生の先輩に学生運動について伺う

人は環境に大きな影響を受け、それによって思考が形成される。当時の自分の周りには、経済合理的であり、利己的な考えを持つ人が多い印象があった。そのため思考のバランスを取りたいと考え、ボランティアなどの利他的であったり非経済合理的な活動に積極的に参加するよう心がけていた。その一環として2023年2月18日、大学のボランティアセンターからの紹介でこども食堂でのボランティアに参加した。そこで森泉さんという70歳(当時)の男性に出会った。
森泉さんは現在法政大学に通われており、私と同じ大学のボランティアセンター経由でこのボランティアに参加していた。ボランティア後の帰りに一緒にランチに行き、そこで色々なお話をしていただいた。その中で自分が印象的だった話がある。それが、「三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜」という映画を観て疑問を持ち、森泉さんにお聞きした、「なぜ学生運動はこの時代にこんなに活発だったのか」という質問に対する答えの1つである、「当時の学生は今と比較して貧しく娯楽も少なかったため、今の学生よりも時間やエネルギーが余っていたのではないか。」である。(この答えの他にも朝鮮特需への抵抗感、共産主義への意識など様々なお話を伺った。)
聞いたら直感的に理解できる話だが、当時の自分は考えもしなかった答えであり、今から半世紀前の社会と現代社会の差異は、自分が想定していたよりもはるかに大きいのではないかと感じた。しかし、昔と今で置かれている状況がかなり違う一方、その時代を生きた方と共通の話題で盛り上がれたりすることが少し不思議で面白かった。

ベトナムでの学生運動家

このボランティアから2週間後、以前から計画していたベトナムに海外旅行に行った。旅行地をベトナムにした決め手は、ベトナムが社会主義であるという点だ。旅行にあたり近場かつ物価の安い国を探していたが、その中でも日本と異なる環境の国に行くことで自分の視野を広げたかった。旅行8日目、旅行の目的の1つでもある戦争証跡博物館に行った。この博物館では、ベトナム戦争で共産主義側が勝利したという背景もあってか、アメリカ軍の行いを否定的に捉えているように感じた。具体的には、アメリカ兵士が死体を持ってポーズを決めている写真や、軍の拠点に敵の頭蓋骨を飾っている写真、枯葉剤による奇形児の写真など、かなりショッキングな写真が数多く展示されていた。そんな様々な展示の中でも自分にとって印象的だったのが、各国での反戦運動という展示だった。ここではヒッピーがベトナム兵士の銃口に花を挿れている写真など、教科書で見たことのあるような写真が並ぶ中、日本の反戦運動を表す写真の中に、最近見た覚えのある写真があった。それが羽田闘争で亡くなられた学生活動家の山崎博昭氏であり、横の説明文ではHeroと称されていた。
現代の日本では学生運動は否定的な文脈で語られることが多いのではないか。少なくとも、彼らを英雄と呼ぶ人は多くないと思う。そんな中、時代的には同じだが空間的には異なる地域にて、同じ事象をほぼ真逆に解釈している点が印象的だった。

仮説を持つようになる

学生運動という営みを多角的な角度から見たことにより、時間的・空間的に異なる地域では自分が想定していたよりも思考の差異が大きいのではないか、と考えるようになった。とはいってもしばらくは、世界は自分が思っていたよりも広いな、という程度だった。しかし、時間が経つにつれてこのようなことを背景にある疑問を抱くようになった。それが主語の大きさだ。以前「国民は反対です!」と書かれたプラカードを見て、その国民って誰なんだろうと思ったことがある。この違和感は、透明でない現代社会において、国民の全体(一般)意思が1つであるはずが無いのに、あたかも全員が一致しているように見せかけていることに起因する。ここで視点を時空的に開かれた世界に変えて考えると、世界は日本より広いし、時間軸をいじればより巨大なものになる。そんな広い世界に共通して言えることはいくつあるのだろうか。
少し難しい言い方をすると、「普遍的な社会法則は存在するのか」という仮説を抱くようになった。
社会科学では、社会には自然科学のような普遍的な法則があるという立場をとる場合がある。しかし、たった50年でさえ、同じアジアでさえ、一定の差異がある(少なくとも自分の想像以上だった)のに、近代ヨーロッパを対象に見出された法則が現代の日本にも当てはまるのだろうか。そんな事を考え、調べていくうちにこの仮説の実証の難しさを感じるようになった。理論を数式化した上で、膨大な年月・地域のデータを代入する必要がある。面白そうだと思う反面、難易度的に厳しいのではないかと考えるようになった。このような迷いの中、分析するのに最適な学問があることに気がついた。それが経済学だ。

経済学と出会う

かなり不真面目な経営学部生ということもあり、3年生の6月に初めてマンキュー経済学という教科書を開いた。しかし、そこから数週間睡眠とのトレードオフが続くほど目から鱗が落ちた。まず第一にモデル化が単純であり(初学分野ということもあるが)、その多くが数式で表されている。第二に、経済的なデータであればビックデータの普及により、政府のサイトから膨大なデータを調達することが可能だ。第三に、この学問は自然科学のように市場には普遍的な法則があるという立場をとっている。この三点より、経済学が「社会法則を実証することで、その法則が普遍的なものがどうかを調べる」という問いに答えるために最適な学問領域であるように思えた。

・少し式を変形すればどれぐらい法則(理論)が当てはまったかを%や偏差値で表せそう!
・他の尺度を導入すれば、当てはまった度合いとの相関関係を調べられそう!

一気に道が開け、アイディアが出てくるのと同時に、やることの具体性を帯びてきたのを実感した。

これからやりたいこと

このようなことがあり、経済学の実証に興味を持ち、準備を進めている。具体的には、理論と実証の理解を深めている。ここからは実証をする前の現段階での予測になるが、経済理論がどれほど現実に当てはまるかは、その国の文化に一定の影響を受けるのではないかと思う。例えば、資本主義は自由を前提とするが、自由は国によって異なる。そして自由は国の成り立ちや宗教にも影響を受ける。実証は大変になるが、仮にこのような形で論を進めることができれば、とてつもなく面白いものになると思う。この”面白い”が主観か客観かは分からない。ただ、”面白い”を原動力に進め、形にすることが出来れば、それは誰かが判断してくれるだろう。私はこのような形で無責任に熱中して行こうと思う。

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