シェアハウス・ロック0614

「アフリカでの一日」(in『規則より思いやりが大事な場所で』)

 ンブール(セネガルの都市。人口20万超)の数学研究所にいた期間の一日、ロヴェッリは終日うろうろと彷徨い回り、最終的にモスクに入った。
 入り口で靴を履いている人を見て、下足禁止と判断したロヴェッリはサンダルを手に持ち、はだしで中に入った。すれちがう人々が、明らかに異邦人であり、とてもムスリムには見えない彼に、会釈し、微笑みを送って来る。
 扉のところから、さらに中に入ろうとすると、一人の若者が困ったような顔をして、慌ててこちらにやって来た。なにごとかを告げるのだが、ロヴェッリには一言も理解できない。
 若者に、手に持っているサンダルを指さされて、ロヴェッリは、モスクのなかに靴を持ち込むことがいけないのだと理解した。
 そこで、入り口に戻り、ほかの人が靴を脱いでいるところにサンダルを置いた。すると、一人の老人が近寄って来て、ロヴェッリに微笑み、若者になにごとかを告げ、ロヴェッリのサンダルを黒いビニール袋に入れ、自らモスクに持って入り、ロヴェッリに渡したという。
 ロヴェッリは、「盗られる心配をしたわけじゃない。外に置いておくことになにも問題はない」となんとか説明しようと試みた。
 老人は微笑み、若者も微笑んだ。ロヴェッリは自分のサンダルを手に持ち、二人に目礼し、さらになかに進んだ。

 わたしは言葉を失っていた。この世の中には、規則(きまり)よりも配慮(思いやり)が重んじられる場所がある。(p.181)

 上の言葉でロヴェッリは中間総括をし、

 人間の途方もない複雑さに関する何か―ちっぽけな何かを、実際に学んだのかもしれない。(p.183)

という言葉で「アフリカでの一日」を締めくくっている。私としては、決して「ちっぽけ」ではないと考える。
 ガザ地区で、悲惨な状況が続いている。私は、国家というものはおおむねろくでもないと考えているし、それに準ずるものもほぼ同様であると考えている。そもそも、国家があるから我々がいる(いられる)わけではなく、我々がいるから国家が成立するのである。逆ではない。だから自らを愛する心の先の先に、かろうじて愛国心その他、雑多なものが存在できるのである。逆ではない。
 だから、ロヴェッリが学んだ「ちっぽけな何か」は、決して小さなものではない。ガザ地区の悲惨な状況を解決できるのは、国家ではなく、それに準ずるものでもなく、この「ちっぽけな何か」なのである。私はそう確信する。
 ここに至って、私は、リベラルアーツはいまだにわからないものの、リベラルはわかったような気がした。あっ、ただしこれは、川畑博昭さんの書いた『規則より思いやりが大事な場所で』(カルロ・ロヴェッリ著)の『毎日新聞』での書評のタイトル「リベラル・アーツの真骨頂」が正しいとしての話だよ。実のところ、私はいまだに、どっかで、「リベラル・アーツの真骨頂なのかなあ」と思っているのである。

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