シェアハウス・ロック0923

「どうか泣かないでください」 

『悲歌のシンフォニー』は、第一楽章、第二楽章、第三楽章にそれぞれ歌を持つ三章構成である。 
 第一楽章の歌は聖修道院の哀歌で、15世紀のものだ。「私の愛しい、選ばれた息子よ、自分の傷を母と分かち合いたまえ」で始まる。聖母マリアの嘆きなのだろう。
 第二楽章の歌詞は、ゲシュタポ収容所の壁に書かれた言葉である。

 お母さま、どうか泣かないでください。天のいと清らかな女王さま、どうかいつも私を助けてくださるよう。アヴェ・マリア。

 その下に、「ヘレナ・ヴァンダ・ブワジュシャクヴナ、18歳、1944年9月25日投獄される」と書かれていたという。
 第三楽章の歌詞は民謡からとられている。この民謡は、シレジア蜂起の際に息子を失った母親の嘆きにもとづいている。

 私の愛しい息子はどこに行ったのか。人でなしども、私の質問に答えなさい。どうして私の息子を殺したのか。
 この老いた目を泣き潰しても、息子は生き返りはしない。
 神の花よ、一面に咲いてください。せめて息子が楽しく眠れるように。

「人でなしども」はドイツ(厳密にはプロイセンの軍事組織)、「私」も「息子」もポーランド人である。シレジア蜂起は、1919年から1921年の間に三度起きている。
 これらの歌は、すべて哀歌(悲歌)である。ヘレナの言葉は祈りであるかもしれないが、それでも哀歌である
『悲歌のシンフォニー』は和声的ミニマリズムの極北と言っていい厳しい音楽的な制約下で、音はほとんど生命的な躍動を感じさせず、だがそれでも生命であり続け、そこに一筋の、ほんの一筋の光のようなドーン・アップショウの歌唱がたち現れる。
 前回、「おそらく人々はこの楽曲に、自分が求めているなにかを見出しているのでしょう」というグレツキの言葉を紹介したが、私は、この「なにか」を、絶望の果ての果ての果てに立ち現れる一筋の希望であると考えたい。
 そうして、生硬な政治性を持つ人間であれば「絶対にあり得ない!」と言い、絶対に許さないことを承知で申しあげれば、ヘレナ・ヴァンダ・ブワジュシャクヴナの祈りを、イスラエルが空爆したガザの小児病院で亡くなった子どもたちに捧げたい。
 民族的には敵同士であり、宗教も異なることをも百も承知のうえで、しかも、祈る神を持たない自らをも省みず、そう言いたい。
 国家、民族、宗教。もしかしたら、いずれ経済すらもこの範疇に含まれていく気すらするが、こういった私たちを地上に繋ぎとめるものを一つひとつ無効にしていくところにしか、一筋の希望が開花する土壌はないのではないか。そういう気がする。
 なかなか無効にはできないかもしれない。けれども、せめて、私としては、無意味に国家、民族、宗教を強調することはすまいと思う。こちらなら、個人の資格でもできる。
 自分の意見の後にこの人の話をするのは気がひけるのだが、ダニエル・バレンボイムは、まだ、イスラエル人、アラブ人の子どもたちのための音楽のワークショップを続けているのだろうか。こういう地味な活動の先の先の先にしか、和解の道筋は見えないと思う。Wikipediaのダニエル・バレンボイムの項のなかの「パレスチナ問題をめぐる言動」は感動する。

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