シェアハウス・ロック0730

『隠喩としての病』(スーザン・ソンダク)

 この隠喩によって示されるものは、「死」である。
 スーザン・ソンダクはこの評論で、結核、梅毒、ペストなどにつきまとう隠喩的表象を検証し、癌についての隠喩の構造に至る。それでも、「病気とは隠喩などではなく、(中略)隠喩がらみの病気観を一掃すること」(まえがき)という近代主義的なくびきからは逃れられていない。
 次の抜粋によっても、それは感じられる。がんに関しては、現在ではほぼソンダクの言っていること(遺伝説)は否定されている。
「結核にかかったと知るのが死刑判決を聞くにも等しかった頃」「今日、一般には癌すなわち死とされるのと同じである」「貧困と不健全な環境とが結核の元凶にされようと、この病気にかかるには結核型の性格類型が存在すると信じられた。癌には、遺伝的要因が絡んでいるかもしれないという証拠があっても、個々の人間を懲罰として襲う病気だという信念と両立し得る」。
 それでもこれは、かなり根深いところを指摘している。「死」を、それも自らの死を目前にすると私たちは立ちすくみ、現代人、近代人から、一気に中世人、古代人に後退してしまう。
 同書のまえがきでソンダクは、「病気が隠喩に頼るのは、『未知な何かがそこに潜んでいる』『恐怖心をかきたてる』からである。病気を病気として捉えるためには、病気を非神話化する必要がある」と言っている。これはとりあえず正しいと思う。
 だが、「がん」は、厳密には病気ではない。「がん」は、私たち自身なのである。「がん」細胞の培養に世界で初めて成功した吉田富三の名言に、「がんも身のうち」というものがある。
 結核菌、梅毒スピロヘータ、ペスト菌という外部からのインベーダーによる病気とは異なり、「がん」は自分自身の細胞が変異したものなのである。
 我がシェアハウスのおばさんは、がんの手術以来、ひたすらがん関係の本を読み漁っている。以前紹介した『がん「エセ医療」の罠』(岩澤倫彦)も、おばさんから回ってきたものだ。かくいう私も、40代で直腸がんが発見され、入院したときには、手術を待つ入院期間に相当数のがんの本を読んだ。
 おばさんも私も、ソンダクが言うように「非神話化」しようとしたのだろうと思う。
 ところが、吉田富三の名言を参照すれば、「生のなかに抱えている死」ががんであることになる。これは、がんの発生を考えればわかる。ある日、細胞のひとつががん化する。免疫機構で、それが潰される。これが一日に何か所でも起こっている。そして、免疫機構で潰されないものが大きくなると、それを持つ者は、がん患者になる。
 40代でがんが見つかったとき、私が一番衝撃を受けたのは次のことである。
 私に対し、一貫してひどい対応をする人間がいた。私は、その人には基本的によくしてきたと思う。そして、「いつかわかるさ」と思っていた。ところが、がんを告知され、「その『いつか』はないかもしれない」と思ったときはショックだった。人生観が変わったと言っていいほどである。つまり、私にとって、「生」が「死」から初めて照射されたのである。そこから、この人とはうまくいかなくなった。
 ちょっと余計な話だったかもしれない。
「生のなかに抱えている死」は同時性を言っているのであるが、時間軸を考えた場合、私たちは「死に進みつつ生きている」という当たり前の結論が導かれる。「生」と「死」は、私たち生命体にあっては絶対的な二項対立であるが、がんは二項対立ではなく、「生」と「死」の弁証法のようなものまで考えに含めるように迫って来る存在である。つまり、前述の私の「回心」は、がんの「神話性」がもたらしたものだったような気がする。ソンダクの「非神話化」はここで躓く。
『隠喩としての病』の翻訳の刊行は1982年であり、これらの言説は間違いなくその時代のものであるし、それを読んだ私も若く、誤読していた恐れも十分にある。『隠喩としての病』と、その続編たる『エイズとその隠喩』(1990年)は現在合本として刊行されているそうだ。いずれ読んでみようと思っている。

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