シェアハウス・ロック0627

「お兄ちゃん、みんなで死んじゃおうか」

 私が小学2年生の三学期に、父親は精神病院に収監された。母親は、和裁の仕立職だった。針一本で、父親の入院費、私と妹、自分の生活費を稼いだことになる。大変な苦労だったと思う。
 この期間で、忘れられないことがひとつある。昭和32年(1957年)のことだ。
 私は、母親が夜なべの針仕事をしている前で横になっていた。横になってはいたものの、目はさめていた。
「お兄ちゃん」
 母が呼びかけた。妹が生まれてから、私は「お兄ちゃん」と呼ばれていたのである。
「お兄ちゃん。みんなで死んじゃおうか」
 私は、
「いやだよ。こわいよ」
と言って泣き、母に抱きついた。
 母は、
「バカだね。冗談だよ。誰が死ぬもんか」
と言い、その話は終わった。妹は、幼稚園に入るか入らないかの歳だった。私は録音記憶があるので、母の声音までおぼえている。
 たぶん、私が「うん」と言ったら、母子心中していたのではないか。人間は、そんなに強いものではない。
 母が、なんとかこいつらのために生き抜かないとと考え直したのは、「誰が死ぬもんか」という自分の言葉に鼓舞されたときだろうと思う。言葉、それも自分の言葉は、それだけ決定的なものだと私は信じる。人間は、そんなに弱いものでもない。
 だが、これはけっして嫌な記憶ではなく、むしろ、甘美に近い記憶である。
 後年、母の家に泊まり込み、私は母の自宅介護をしたのだが、最初のケアマネジャーが相当にヘンなヤツで、あまりにふざけたことを言うので、「おまえ、いまから殴りに行くから、そこを動くな」と言ったことがある。そのときに、こういうことがあとふたつ三つ重なったら、母を殺して、自分も自殺するんだろうなと思ったことがあった。
 だからあのときの母も、ふたつや三つとんでもないことが重なったんだろう。
 これからお話しするのは、新聞記事の話だ。ちょうど母の自宅介護をやっていたときのことで、同じ境遇だから、よくおぼえている。やはり介護をしていた子ども(といってもほぼ当時の私と同年配)が、彼の母を殺して、自分も死のうとしたが失敗し、逮捕され、裁判にかけられた。確か、生活保護が打ち切られたのが引き金だったはずだ。裁判官は異例のことだが、判決申し渡しの後に被告に声をかけ、「まだ先が長いので、真摯に生きてください」と諭したという。大阪から江東区にやってきた親子だった。彼も、ふたつや三つ重なったんだろうと思う。
 母にとっては、たぶん恥ずかしい話だろうと思われることをなぜしたかと言えば、こういう仄暗い愛もあることはあると言いたかったからである。それは、当事者ならばわかる。
 だが、当事者でもない人間に、

 一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。

などと、なぜ言えるのか。あえて暴言と言うが、私は、この暴言を初めて読んだときに、「セカンドレイプ」という言葉が頭に浮かんだ。彼らは、二度卑しめられ、二度殺されたのだ。
 前回、「誰が言いだしたかは知らないが、米軍が日本に上陸したら男は全員去勢され、奴隷にされ、女は全員売春婦にされると言われていた」と言った。それでも、そういう目に遭わないように殺すのが「愛であった」などと、なぜ当事者でもない人間に言えるのか。それ以前に、当事者でもないのに、なぜ、そんなことがわかるのか。
 自分の子ども、孫たちに、私は70歳を越えたからこそ言えるようになったことがある。去勢されても、売春婦にされても生きていけというのが愛だということだ。生きてさえいれば、一度や二度は、生きていてよかったと思うことがあるはずだ。そのときのために私たちは生きている。
 いや、これはいかにも偉そうな物言いだ。言い直す。私はそのときのために生きてきたし、いまでも、これからもあるかもしれないそのときのために生きている。これだけは間違いない。

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